見取り稽古の分解能を細かくする――見るということ
グループで居合を教わっているとき、教わっているAさんから
「きみは、ぼく好みの居合をするから……ちょっといいかな」
と声をかけてもらって、5分くらい個人指導を受けた。
Aさんは、居合というアートを探求している人である。教士の段位をもっているし(七段と八段のあいだ)、しかしそれ以上に、周りとは違うレベルの居合をする人だった。見ているものが違うのだ。
当然ぼくも、Aさんを見取りながら稽古をしている。
だから「ぼく好みの居合をする」と言われて、すごく嬉しかった。
――ああ、Aさんもわかってくれるんだ
※
そういう人たちの指摘は、簡潔に的を射たものであることが多い。表面ではなくて、中身の問題を言うからだ。
今回も、端的だった。
「抜き打ちのとき、ひじが伸びてる。ひじが伸びていると、抜いた瞬間に刃先に力を込められない」
「このくらいの余裕が必要なのね。その調整は鞘手で行う」
そう言いながらAさんはやってみせる。ぼくは目を見開いて、動作を分解しながら見た。「ひじ」という要素まで分解したことがなかった。だから、見取り稽古では学べなかったのだ。見取り稽古では、分解能からこぼれ落ちる事項は学び取れない。反省しながら、ひじを含めて動き全体を見た。
右手のひじを軽く緩めた状態で、刀が鞘からほぼ出ている。鞘尻を上げながら、引いている。柄は若干右寄りでいい。標準の形を、自分にあわせているのか。両肩の状態は……どのくらい体を正面に対して傾けるか……ぼくとの差は、刀の長さではないか……
見るべき場所はたくさんあるし、「何を見ているか」こそが稽古ごとの本質でもある。だから若干ぼかします。
見たあとは、自分でやってみる。
最初は適当に、ひじをゆるめて抜き打つだけ。
――おお
と思った。自然と顔がほころぶ。
言われてたけど実践できなかったことが、一気にできるようになった。抜いた瞬間に刀を握りこむこと、横一文字に力を乗せること。手の裡の課題が、ひじを改善することで一気に解決したのだ。
手の裡の変化は、すべてに影響する。ぼくの抜き打ちに、しっかりと力が乗った。刀を制御できている。このイメージは、日本一をとった人の抜き打ちをほとんど同じだ。
――何となく違うなと思っていたのは、これだったか!
ぼくは確かな指針を得た。
この感覚を得たまま、抜き打つ動作を再構築していく。
どのくらい鞘を引けばいいか、上下左右どこを意識するか、手の裡はほんとにここでいいか、数ミリ奥にしたほうがいいんじゃないか……
ずっとひじを伸ばしてきたから違和感がある。ゴワゴワした感じを上書きするために、ちょうどいい場所を探っていく。
「こういうことですか」
と聞いた。
そのひとは
「うん、とてもよくなった」
と言ってくれた。
ありがとうございます、と頭を下げた。
※
今日の居合には、ゲストで偉い人が来ていた。
その人は全国大会に出場する人を教えていたから、直接ぼくの指導をすることはなかった。しかし、稽古終わりに刀礼をしていると、
「初段って言ってたよね。きみは居合以外に何かやってた?」
と聞いてきた。
「合気道をやってました」
ぼくが答えると、
「正座の姿勢がよくてね、さまになってた」
と言った。
だからねぇ、見る人が見ると、わかるんですよ。判断するのは、ほんの一瞬でいい。あるレベルに到達しているか、もしくは到達しようともがいているか。すぐわかるんだ。
その人が何をやっているかというのは、本当にすぐわかる。
残酷なことにね。