白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

陸上部

高校1年の秋、ぼくは陸上部に入った。

 

校内のマラソン大会で3位に入って、陸上部のやつらに「一緒に走ろうぜ」と言われたからだ。走るのは楽しいかもしれないと思った。のちに関東大会にも出ることになるエースからも「いい走りしてる」とも言われた。入るしかないと思った。

勢いで陸上部に入ったわりに、ふつう以上に練習をこなせた。陸上は練習量だけではないと思った。才能あるかもしれない。練習以外でも走るようになった。はじめての大会は緊張したけれど、まずまずの成績が出た。

気をよくして、また練習をつづけた。つぎの大会では1500mで4分30秒という成績を出した。陸上を始めてから半年未満だとすると、いい成績だった。同期のなかでは、エースに次ぐタイムだった。彼からも褒められた。

とても嬉しかった。自分には才能があるんだ! と思った。もちろんエースには及ばないけど、それでもぼくはなかなかやるんじゃないか。練習メニューも自分で考えだして、あれはやる意味なくないか? この練習も取り入れたほうがいいんじゃないか? と勝手に言っていた。

 

つぎの大会が迫ってきた。1週間前から大会に向けて練習メニューが組み立てられていた。事件は、大会2日まえの最後の全体練習をめぐって起きた。

練習メニューをみた。坂道ダッシュと800mを2本だった気がする。脚に疲労がたまるなと思った。休んだほうが本番でいいタイムがでるはずだ。そう判断して部員に「今日は調子悪いから休むわ」と言って、早めに帰ろうとした。

そのときエースがやってきた。「体調悪いのか」と尋ねた。ぼくの体調が悪くないことは明らかだった。さっきまで元気にしゃべっていたのだから。「いや、その……メニューが、足に疲労が、」舌をもつれさせながら、下を向いて答えた。ごまかすように笑った。

身体が一瞬浮くのを感じた。

胸ぐらをつかまれて、廊下の壁に叩きつけられていた。背中に衝撃を感じる。いてーな、と言おうとして顔を上げたら、彼の目はぼくを見すえていた。目を見開いて、まっすぐにぼくを見ている。目をそらせない。

 

「なんでお前は本気でやらないんだ!」彼は大声で言った。

 

彼が大声を出したのは初めてだった。廊下にいた生徒みんながぼくらを見た。視線を感じて顔が赤くなった。

何か言わなきゃいけない……

顔をそむけて「すこし足が痛いんだよ……」と消え入りそうな声で言った。彼は何も言わずに手を離した。ぼくは逃げるように家に帰った。

 

家に帰っても、彼の目が忘れられなかった。射すくめられるとはああいう状態を言うのかと思った。ふざけんなよという感情が目を通して伝わってきた。ぼくは目をそらしたんだという事実だけが追いかけてきた。

ほかの部員から、気にするなよとメールがきた。先生には調子が悪いみたいでって言っといたから。

ありがとうと返しながら、自分が一番悪いことわかっていた。陸上をはじめて半年もたたないのに、自分勝手な思い込みで練習をサボった。同期のエースは練習に出た。練習メニューに不満があるならサボるのではなくて、先生に直談判すればよかったのだ。その勇気がないばかりか、あまつさえ同期にまで迷惑をかけた。

なにより胸ぐらをつかんで大声をあげてまで、ぼくを叱ってくれる同期がいた。卑怯にも彼に目をそむけたのだ。脳みそがしんと冷えて、胸に重いものがのしかかったように感じた。

クソだなと思った。周りに甘えていたのに、わがままを言ったのだ。

いまさら何を言っても仕方ないと思った。行動で示すしかないと思った。夜中だったけど、家族に走ると言って外に出た。練習と同じメニューをこなした。

 

つぎの日、彼に会って昨日はごめんと謝った。

彼は俺も声を荒げて悪かったと言った。明日はふたりとも頑張ろうな。

悪いのは俺だ!……とこぶしを握りしめた。けれど、それを口にしても、自分が満足することにしかならなかった。唇を噛んで、おうと返した。

 

註:noteにも同じ投稿を載せました。試していきます。

予感

あとになって思いかえしたら「2018年6-7月は人生の決定的な分岐点だったな」と思いかえす気がする。正体はみえないけれど、ひしひしとした予感を感じる。

 

直接のきっかけは、6月に佐渡島さんに「面白くて、的確」と言われたことで、続いて7月に「すごく好き」と言われたことである。すでに書いたように『プロフェッショナル』で佐渡島さんをみたとき、「このひとを脳内編集者にしよう。このひとに面白いと言わせれば大丈夫だ」と確信に近い予感があった。

あのときと同じ予感をいま感じている。

 

これまでの人生で、この種の予感が外れたことはない。

小学校6年で初めて塾に行ったとき、「勉強ってクソ面白いな」と衝撃を受けた。塾に入ってすべてを吸収した。ひたすら面白かった。いまでも、新しい世界を知って分析するのが大好きだ。

先輩に感情を受けとめてもらったとき、「ああ、ひとりぼっちじゃないんだ。ぼくだけじゃないんだ」と思った。世界に受けいれてもらって、他人と初めて出会った。なんて人間の心は面白いんだと思った。他人と話せるようになった。

愛着障害という言葉を知って、「これまで自分を縛っていたものは、こいつだったのか!」と世界の謎がとけた。生き苦しさの正体がわかったから、対処できるようになった。

佐渡島さんと出会って、の話は書いたとおり。

親友を亡くして絶望の淵にいたとき、周りの人たちから愛をもらった。「ああ、ぼくは、跳べる。こんなところじゃ終わらない」と直観した。この話はこれから書く。

 

ぜんぶ人生の転換期だった。

いままでの世界観がぶちこわされて、新しい世界がぼくを待っている。そういうとき、例外なく確信に近い予感が襲ってきた。すこし気持ち悪くて、でも心地よい、自分が大きく揺さぶられる感覚。

自分じゃない自分が、しかしどこまでも自分らしい自分が、ぶ厚い殻を破って出てくる。停滞したあとに、絶対に起きる確変の時期だ。

自分が次のステージに移ったことを、言葉で理解するよりも早く、感覚が教えてくれる。これまでの延長線で考えていてはいけない。まっすぐに自分の感覚に従って、ひたすら目の前のことをこなせばいい。感覚が正義で、理屈は間違っている。どんなに変だと思っても、なんとなく正解だと思ったほうに身をゆだねる。心を前面に出して、他人のことを考えずに、やりたいことをやる。

結果的にこっちのほうが正しい。

 

いままでのぼくだったら、「人生の転機」を書いてない。ぼく自身の闇を吐き出しているし、登場人物は大学時代にそばにいてくれた人である。去年から吐き出すべきだと思っていたけれど、ぜんぜん吐き出せなかった。佐渡島さんに「面白い」と言ってもらったから、なぜか「いまなら吐きだせる。いましかない」と思った。6月の文章は、それまでと何かが違う。わかんないけど、何かが違う。

そうしたら、また佐渡島さんが「すごく好き」と言ってくれた。コルクラボのみんなと出会えた。

確実にいま、ぼく自身に何かが起こっている。何が起きているかはわからないけれど、数年たったらはっきりするはずだ。

だからよくわからないけど、noteをやる。ほとんど本名に近いペンネームを作る。遠目だけど写真も出す。よくわかんないんだけど、恥ずかしいけど、なんとなく正しい気がする。心の声がやれ! と言ってくる。

人生にはこういうときがある。逃したら最後だ。二度とやってこない。

 

自分の見たい世界を見られるのは、自分しかいない。

 

ぼくの親友はやりたいことがあったのに、何の因果か亡くなってしまった。ほんとうに偶然の差だ。ぼくもいつ死ぬかわからない。

 

死ぬまえに世界に傷跡を残したい。

 

「人生の転機」をこれから書く。今週で仕上げる。ぜんぶさらけだす。グチャグチャしていてもいい。わけわからなくてもいい。ぜんぶさらけださないと、先に進む資格は得られない。

「人生の転機」を書きながら、ぼくはめちゃくちゃ泣いている。ありがとうと言いながら、さようならと言って、大好きですと言って、顔をぐちょぐちょにしながら書いている。

泣いてしまうのは、自分の心を外側に写し取る人生初の体験だからだ。できる人たちはそんなの意識せずに、心と世界をつなげている。文章を使わなくてもできる。でもぼくは、泣いて傷ついて嫌だと言って、死にそうになって吐き出してようやく心と文章がつながる。心と文章を阻んでいる大きな壁をいま壊せないなら、たぶんずっと壊せない。

 

 

この文章も、最初は借りものの言葉だけれど、後半は自分のなかのよくわからない何かが顔を出している。優等生の顔をしている文章なんて、クソくらえだ。何だかわかんないけど、とにかくスッゴイ文章を書きたい。まったくうまくないけど、後半部のほうが好きだ。後半部に現れた何かと、文章をつなげることができたとき、ぼくは次の領域にいる。

こういうことを死ぬほどやって、読んでくれている人を失望させて、「あいつヘタクソになったな」と思われて、読む人がいなくなったときに、やっと、やりたいことができるようになってる。

 

だから、ごめんなさい。ここから数ヵ月は、質の保証ができません。いままでの文章でOKだと思っていた人たちにとって、違和感しか感じない文章になります。

でもこのままじゃだめだ。ただ「それなりにいい」だけの文章になってしまう。ぜんぜんよくないのに。ヘタクソなのに。失敗しまくって、自分のなかで暴れているものに懸命に形を与えようとしないといけない。

そのかわり、1年後は違う次元にいることを約束します。違う次元にいなかったら、諦めるときだ。

noteには、こういうワケわからないものは載せないと思います。ブログだからできるんだ。 

 

夢野久作ドグラ・マグラ』をお薦めされた。

何だかよくわかんないけど、とにかくすごくて、涙が出てきた。くっそ。こういうのを書きたい。

ほんとに嬉しいときって、何も書けなくなるんだね

どうしようどうしよう。この嬉しさをどうすればいいんだろう。わかんないよ。

 

ふとしたときに顔の筋肉がゆるんで、にへらと笑ってしまう。道行く人に「ぼくね、いいことがあったんです。世界は愛に満ちてるんですよ」と声をかけたくなる。自分に「落ち着け」と言い聞かせても、まったく聞く耳をもたない。プラスのエネルギーで満たされているから、ほかの感情がぜんぶ上書きされてしまう。心がポンポン跳ねる。

こういうとき、どうすればいいか知っている。自分の心にさからうのをあきらめて、鴨川に向かって「うれしー」って叫ぶ。高揚が収まるのをゆっくり待つ。たいていは、それで収まる。

今回はそれでも収まらない。ありあまるエネルギーをどこかで発散しないと気が狂いそうだった。自転車を強くこいで京都中を走り回って、大きな公園で筋トレして、近所の大文字山に登った。息をついてスマホを取りだすと、あの文面を見てしまって、「こんな言葉をかけてもらっていいのだろうか!」と発狂しそうになる。

 

また佐渡島さんに褒められてしまった。

 

はわわ……あの佐渡島さんに、「すごく好き」「サポートしたくてもできないからnoteで書いてほしい」と言われてしまった。ぜんぜん信じられない。これ、ぼくに言ってるんだよね? 同姓同名の誰かじゃないよね……ほんとに言ってくれてるんだ! 

嬉しさがはじけて全身が満たされた。どうしたらいいかわからなくてスマホを閉じた。心臓がバクバクした。もういちどスマホを見た。こらきれなくて鴨川まで走った。

鴨川デルタで「やったー。ありがとー」と叫んだ。川にじゃぶじゃぶと入っていって、水の冷たさを感じながら「noteやります!」と返した。太陽が水面にギラギラ光っていた。

 

こんなこと言ってもらって、つぎの投稿でがっかりさせるわけにはいかない。未熟だけれど、未熟なりにちゃんと書かなければ。パソコンのまえに座っていつものように書こうとする。構成作って、(佐渡島さんに好きって言われた)、冒頭を書いて、(サポートしたいだって)、うまくつながらないからシーン別に書きだして、(書いてほしいだって)……

もう無理!

とにかく嬉しいんだ。好きなひとに好きって言われるってこんなに嬉しいんだね、知らなかったよ。こんなのはじめてだよ。いつも考えていることが嬉しさの奔流で押し流されてしまう。世界はぼくを祝福しているのだ。細かいことは気にすんな。

どうしようもないから書くのをやめた。心が浮ついて人物のなかに感情が入っていかない。心のなかに潜っていけない。心と文章がつながらない。3000字くらい書いたけど、ぜんぜんダメだった。ボツ!

ボツの原稿さえも、なぜか嬉しい。ワケわからん。

 

「人生の転機」を書いているあいだは他の文章を書かないって言ったけど、撤回します。無理です。こんな状態じゃ心の奥は書けないよ。ごめんなさい。高揚が収まるまで、数日間待ってください。

ほんとに嬉しいときって、何も書けなくなるんだね。

 

【付け足し】

白いくまもん(暫定:アイコンと名前を変えて7月9日までに稼働します)|note

ブログとnoteの使い分けも手探りしながら来週に始めます。今年後半は「やりすぎる」を目標に。課金は設定しません。もしよろしければフォローお願いします。

孤独と愛のおしまい。そしてこれから。

昔からの読者は知ってのとおり、このブログは孤独と愛をテーマのひとつにしている。

 

ぼくは昨年3月に親友を亡くした。

エッセー、あるいはある人のこと - 白くま生態観察記

 

それからずっと、さみしくてたまらなかった。京都に来てからも、毎日毎日、涙があふれてきた。気が狂うほどさみしくて、自分がこんなにさみしがりな人間だと初めて気づいた。驚いた。文章にすることで自分を保とうとした。できあがった文章の多くはとても公開できない。

どうしようもなくさみしくて、誰ともつながりたくなかった。大学院では基本的に孤独を保った。でも逆説的に、誰かと深くつながりたかった。このさみしさをわかってもらいたかった。共有できると思った。

 

去年~今年2月のブログを見ると、あきらかに病んでいる。表面的には大丈夫なように見えるかもしれない。しかし確実にさみしさが根底にひそんでいた。誰とも共有できないさみしさをブログに託して、ひとりで泣いていた。

さまざまな物語の感想を書いているようで、さみしさから救ってくれるものばかりを探していた。人生初のさみしさを理解するのに資する本、さみしさから救いだしてくれる漫画、愛で満たしてくれる映画。そういうものを吸収しつづけて、ブログに吐き出しつづけた。

 

最初に読んだ本は福永武彦『愛の試み』で、いま読み終わった本はエーリッヒ・フロム『愛するということ』である。

福永は孤独なひとで、孤独を中心に愛の理論を固めた。去年のさみしかったぼくは、福永さんとシンクロしていた。孤独だから、孤独を埋めてくれる誰かを求めていた。誰かに救ってほしかった。

フロムはなんというか普通のひとで、純粋に愛の理論を固めた。孤立した人間は誰かとつながる愛を求める、という出発点は一緒だけれど、孤立に価値を置いていない。あくまで孤立も愛も等価値な概念である。

 

ふたりの違いは、自分のことを愛しているか否かにあると思う。福永さんは自分のことを愛しておらず、フロムは自分のことを愛している。

で、ぼくは、一時的に福永さんにシンクロしたけれど、フロムのほうが正しいと感じる。より自然にひとを愛せているのは、フロムである。フロムになりたい。

 

こう思えるのは、ようやく、親友が亡くなった傷が埋まってきたからだろう。

強烈なさみしさが過ぎ去った。

 

さみしさを初体験したと言った。

ぼくは感情を押しこめるほうで、感情というものは、抑圧しつづけると麻痺してくる。麻痺した感情は意識上では感じないけれど、無意識下では着実に積み重なっていって、いつか決壊する。

その瞬間がここ数年で3回くらいあって、親友の死は、さみしさセンサーを決壊させた。さみしさを感じない人間だから誰にも恋をしないのかもしれない、と思っていたぼくにとって、さみしさを感じたことは天祐だった。ふつうの人間なんだと安心した。

安心したのはいいけれど、初めてのさみしさをコントロールできなくて、去年のブログは異常にさみしいものになっている。ごめんなさい。

それでも読み続けてくれた人には、感謝! 愛をささげます! だいすきです!

 

んで、いまフロムを読めるということは、たぶん、さみしさをコントロールできるようになってきたのだと思う。フロムの本は正直、あたりまえの描写の連続で、ぼくが愛について書くならこう書くだろうなーという感じだった。読んだそばから頭に入ってきた。

そろそろ、つぎの段階にいかないと。さみしさにひたって、愛を探しもとめる日々はおしまい。今後ともよろしくおねがします。今年中には、何か発表できるんじゃないかな。できたらいいな。