白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。冬眠するので春になったら起こして

京大の学園祭

――いったい子供は、「絵」を描いているのだろうか。「絵」ではないのだ。自分の若々しい命をそこにぶちまけている(岡本太郎『自分の中に毒を持て』、123頁)

 

京大は学園祭の時期である。

11月23日から26日までの4日間。

直接の会場ではないはずの院棟周辺にも、ひとがたくさんいる。最寄駅からの通り道に位置しているからだ。

人波を自転車で通り抜けようとして失敗する。自転車を降りて、ゆっくり歩く。楓が赤く色づいているのを発見する。歩く人たちは、どこか高揚している。コートの前を開けてシュッとした雰囲気の人よりも、ジャンパーに身をくるんでもさっとしている人たちのほうが多い。それだけ寒いのだろう。もしくは、ファッションに関心がないか。後者のほうかもしれない。お父さん世代の人たちが多い。

慶應の学園祭と比べて若い人たちは少ない。垢ぬけた雰囲気の人は、もっと少ない。

三田祭は、すこし苦手だったな」

そんなふうに思いながら、自転車をとめた。学祭を回る。

4日間唯一の平日。人が少ないときを狙って。

 

校舎のなかまで響いてくるバンドの演奏。出店から漂う食べものの匂い。「○○どうですか」と声をかけてくる大学生。

こういうのは大抵どこも同じ。学祭だなぁと懐かしい。

とりあえずのお目当ては、『蒼鴉城』を買うこと。京大の推理小説研究会の部誌だ。綾辻行人さんや法月綸太郎さんが所属していたサークル、と言えばわかるだろうか。日本でもっとも有名な推研だ。40号の記念誌を買った。彼らの寄稿もある。昔からこういうサークルは応援したくなる。何かを作り出すのって神秘じゃないですか。

話は変わるが、院の知り合いも所属している。古き良き京大生の例にもれなく、彼も講義をサボり続けている。彼の名前を部誌の後ろで見つけた。

 

ぶらぶら歩く。

古本市がある。よい状態の『ノラガミ』1-17巻が1000円。破格だ。買った。

陶芸部が作品を売っていた。波の形をしたカップが売られていた。釉薬の色も良い。買った。

クジャク同好会なる怪しげな団体が、クジャクを2匹展示している。「飼育にお金がかかります! 募金お願いします」。そう言われちゃ、応援するよね。クジャクの卵の殻やクジャクの羽も売られている。鈴虫飼育セットも一緒に売っている。なんでもアリやなぁと楽しくなってくる。HPを見ると、どうやら田中神社のクジャクも、この同好会出身らしいhttp://www.kupeacock.com/?p=1841。あれは見事だった。

校舎のなかでは、吹き抜けを使って、自作UFOキャッチャーをやっている人たちがいた。1メートル四方はある大きなUFOが、うぃーんと動くのだ。人間の胴体くらいのスティッチたちがビニールにくるまって、転落防止ネットに転がっている。UFOでぬいぐるみたちを救いだすミッションなのかもしれない。

正門前のどでかい看板には、女の子の絵が描かれていて、「美少女戦士! 森鴎外!!」と書かれている。おもわず吹きだす。

写真部の作品のひとつに、「京大生の敵」と題して、自転車撤去作業トラックが写っている。歩行者の邪魔にならないように整然と美しく路駐された自転車たちを、問答無用に撤去していくトラックだ。森見さんの『四畳半神話大系』を読むと、いかに暴虐非道の行いかがわかる。これは本当に敵だ。ぼくも愛車をやられて、2300円が飛んでいった。乱暴に扱われたのか、チェーンが緩んでいた。許せん。

学生だけではなく、フリマをしているおじさんおばさんたちもいた。いろんな人を包みこむ雰囲気がある。

 

回りながら、慶應と比べて、なんで京大の学祭は居心地がいいのか考えていた。

なまの人間を感じたからだ。

「自分の若々しい命をそこにぶちまけている」やつらがたくさんいて、そういう存在がふつうに受け入れられている場所だからだ。それはバンドやダンスだけではない。推研もクジャク同好会もUFOキャッチャーも美少女戦士森鴎外も、みんな自分という存在を精いっぱい表出している。

お祭りだから、そういう側面はどの大学にもある。慶應にもあった。しかしどこか、一定の枠を感じていた。どこか窮屈だった。たとえば服装や化粧をとっても、三田祭では参加者にそれなりの要求がある。重武装をしないと、あきらかに浮いてしまうのだ。洗練されていないと、受け入れられない雰囲気がある(もちろん僕だけかもしれない。だが、僕がそう感じていたという事実が、僕にとっては重要になる)。

京大にも、制限はある。けれど、何やってもいいんだ、という共通理解があたりまえに存在している。いろんな人間が身近にいても、普通に受け入れられる。

自分をそのまま出してもいいんだ。

そういう青くさい願望と衝動を見ている気がした。とても居心地がよい空間だった。

久保ミツロウ『モテキ』と古谷実『シガテラ』

久保ミツロウモテキ』全4.5巻(講談社

古谷実シガテラ』全6巻(講談社

 

思春期において、自意識とのつき合いかたは、かなり重要な位置を占める。

自意識がないのは人間的にどうかと思うし、逆に自意識に振り回されても、人生は先に進まない。思春期を通して、ちょうどいい自意識との付き合いかたを見つけるのだと思う。だから、思春期にはありえないほどの失敗が続く。思春期を終えても、思いだすたび「ギャー」と叫びたくなるし、誰かに「おまえ、あのとき○○だったよな」とか言われると、恥ずかしくて家に帰りたくなる。そうやってひとは成長していく。

その自意識が、もっとも顕著にあらわれるのはいつか。

 

たとえば、桃栗みかん『群青にサイレン』では、「逃れられない他者と自分を比べたとき」だと言う。あいつはうまく行ってるのに、なんで俺はダメなんだ。理想と現実の乖離。挫折して、嫉妬して、自己嫌悪して、絶望して……たしかに、肥大化した自意識に振り回される典型例だ。

しかし、自意識がもっとも試されるのは、「はじめて好きな相手と向き合ったとき」なのではないか。多くの人間にとって異性である。

その点で、『モテキ』と『シガテラ』は同じ対象のふたつの側面を扱ったものだといえる。

モテキ』は、ある男がとつぜん4人の女性から連絡を受ける場面から始まる。「もしかしてあの子たちは、僕のことが好きなんじゃないか」。男は、相手の言動を深読みしつづけ、モテキが来た!のだと思い込む。4人のあいだでイロイロ思い悩みながら、しかし自分から行動できない。肥大化した自意識は、自分のことだけを考えて、傷つくことを極度に恐れる。結局だれともつきあわないが、自意識を制御しながら、周りとうまく関係していこうという気づきで終わる。

シガテラ』は逆に、女性とつき合うところから始まる。いじめを受け、性への鬱屈した感情をもてあましていた冴えない男子高校生は、「あのひと、君のこと好きなんだって。話してあげてよ」、という言葉をかけられる。しかし、自分からは何も動けない。思考だけが爆発しつづける。結局、あいてからの告白でつき合う。自分を受け入れていない彼は、つき合ってからも、自分の都合だけで暴走しつづける。「好きだよ」と言ってくれた相手を見ていないのだ。そうして、さまざまな事件に巻き込まれながら、欲望を出しまくる。最後に社会人になって振り返ると、「ああいうときもあったな」と成長を実感する。

こういう漫画を、自意識爆走系漫画と呼ぶ(白くま命名)。『モテキ』はつきあう以前の自意識を扱った。『シガテラ』はつきあってからの自意識を扱った。自意識の表と裏の側面である。

読んでいるだけで恥ずかしくなる。なぜなら、自分にも経験があるから。漫画のエピソードを読みながら、自分の失敗談を思いだしてしまうのだ。

 

自意識が肥大化したとき、その世界には、自分しかいない。「傷つくのは嫌だな」「なんであのひとはこう言ったのだろう」「こんなダメな自分なのに」「ああ、絶対に嫌われた」「もうぜんぶどうなってもいいや」「引きこもりたい」。自分のなかだけで完結する、どす黒い感情の渦。

他人と向き合う前に、自分と向き合えよと言いたくなる。

それでも、そんなやつにもかかわってくれる人間はいる。そういう人間のうち、もっとも未知で、もっとも遠く、もっとも向きあわないといけないのが、好きな相手だ。

好きな相手とかかわるときに、肥大化した自意識は爆走しつづける。周りはその迷惑を受けつづける。自分も周りも疲弊する。若くて元気なときにしか、克服が難しい病だ。

自意識爆走人間は、いつか気づく。

あ、自分のなかだけで生きていたな。周りのことを見ていなかったな。なんて自分はちっぽけな人間だったのだろう。周りはよく一緒にいてくれたな。ほんとうに、ありがとう。さようなら。

信頼のエチュード

鴻上さんの『表現力のレッスン』を読んでいる。 

 

この本は「信頼のエチュード」という演劇のレッスンで始まる。

ふたりで行う。前後に立って、前のひとは目をつぶって後ろに倒れる。後ろのひとは、倒れてくる前のひとを支える。

前のひとの信頼が試されるレッスンだ。前のひとは、後ろを振り返らずに倒れるのだから、支えてくれるひとを信頼しないといけない。

「支えるといったって、もしかしたら、支えてくれないかも」「支えようとしても、体重が重くて、支えきれないかも」「さっき会ったばっかりのひとだし、信じ切れない」

そういう思いを振りきって、えいっと倒れてみること。そうすると、一瞬の浮遊感と恐怖感ののちに、後ろのひとの手が自分を支えてくれる。「ああ、よかった。支えてくれたんだ。信頼してよかったんだ」とほっとする。そして、つぎは自分が支える番だから、と前後を入れ替えてもういちど行う。

これが基本である。

この本は「倒れ込むときに身体のどこが緊張するか」という側面から、「緊張するときの自分の身体を知る」ことを目指す。緊張するときの自分の癖を知ることは、いろんな場面で「あっ今緊張してるな」と気づくことにつながる。気づければ、緊張している場所をほぐすことで、気分が落ち着く。

 

さて、このレッスン。

たぶん、ぼくは苦手だ。なかなか倒れられないだろう。落ちたときを考えて、両腕の関節をゆるめる。首をしっかり固めて、落下の衝撃に備える。お尻をつき出して、落下の痛みを肉で吸収しようとする。それだけ身体をがっちり固めたあとに、「はやく倒れなさい」という命令によって、なるようになれ!と倒れ込む。痛いの嫌だなぁと思いながら、倒れ込んで浮遊する身体を感じる。落下のための体勢を取る。

もうダメだと思った瞬間、後ろのひとの手を感じる。支えられている自分を発見するのだ。

支えてくれてよかったと、ほっとするだけではない。幸福感に包まれる。涙さえ流すかもしれない。

信頼のレッスンだけれど、他人をまったく信頼できない自分に出会う。他人に自分を預ける幸福を知らないから、いつもひとりで生きようとする。傷つくくらいなら、自分でやったほうがましだと他人を警戒しながら生きている。他人に何かを頼もうとしても、見捨てられるのが怖いから、自分ひとりでなんとかしようとする。

身体的な緊張だけではなく、心が強張っているのだ。

常日頃から、過剰に警戒して生きている。

そのコリをほぐすレッスン。

 

このレッスンの感覚は、何かに似ているなと思う。

支えられ、包まれ、安心できる誰か。

ああ、そうか。ベッドに飛び込むときの感覚に近いんだ。

日中の人間関係に疲れきって、「疲れたよー」とかひとり言を言いながら、ベッドに飛び込む。ふんわりとしたスプリングが体重を受けとめてくれる。慣れ親しんだこの感覚。圧倒的な包容力。唯一無二の幸せな瞬間。だって、ぜったいに受けとめてくれるじゃん。自分がどんな状況でも。

そうして、安心に包まれて寝る。

翌朝、ふとんから出られない。もうすこし、もうすこし。外寒いし。講義よりも、布団のあたたかさの方が人生にとって重要じゃん。

こんな生活もあと1年ちょっとなんだ。

三浦しをん『風が強く吹いている』

三浦しをん『風が強く吹いている』(新潮文庫、2006年)。

 

夜中の11時に読みだした。そのまま、深夜3時半まで読んでいた。

普段なら「明日もあるし、ここでやめて寝よう」と手をとめる。しかし本書には、先を読みたいと思わされた。心のままにページをめくっていたら、いつのまにか読み終えていた。ひさしぶりの体験だった。

物語から離れがたい体験。

そういう思いにさせられるものを、一流の物語という。

 

 

文庫にして650頁。分厚い長編である。

しかし物語の世界にぐいっと引きこまれるから、長いとは感じない。むしろ、短いとさえ感じる。

爽快な読後感なのだ。

箱根駅伝の描写が爽快さをもたらしている。250頁/650頁を占める駅伝は、スポーツ特有の「この先どうなるのだろう」という目を離しがたい感覚を与える。

早く先が読みたい。

読者は、こう思う。

ここからが真骨頂である。著者のうまさは、箱根駅伝を、完全に内面から描くことにある。読者は、先の結果を知りたい。が、それ以上に、タスキをつなぐ10人それぞれの心を読みたいと思わされる。

構造的に「結果がどうなるのだろう」と思わせておいて、じつは「内面を味わわせる」のだ。内面を描くだけでは、停滞しがちである。構造を使うことで、スピードを維持したまま、内面を味わわせることに成功している。だからこそ、分厚い本を分厚いと思わせず、爽快な読後感を達成している。

すばらしい。

 

たまたま竹青荘に住んだなりゆきで、駅伝を走ることになった10人。彼らは、ただ走って勝つことを目標にしていない。タイム的に速いことだけを目標にしていない。

じゃあ、何を求めて走るのか。

回答はさまざまになる。そのさまざまを、10人の内面を通して描きだした。

 

「それぞれの走る意味」を主軸においた本書は、箱根駅伝という構造を使った。

箱根駅伝に入るまでの前半部は、ぼくは漫画的だと感じた。コマをパンパン切り換えていって、長距離を説明しながら、主要人物を紹介しながら、いろんなエピソードを挟みながら、目標まで強引にもっていく。空白行さえ入れずに視点が移り変わっているのも、漫画的である。

強引さは否定できない。ぼくは長距離をやっていたから、「そんなうまくいくかよ」みたいなところがある。しかしそれは重要ではない。設定の一部なのだ。強引なくらいの設定のほうが、引きこまれる。夢があるから。

前半部は、漫画で描いたほうがうまくいくかもしれない。でも後半部には、小説でなければ、描きだせない世界がある。その世界に緩やかに移り変わっていくためには、前半部を小説で描く必要があった。漫画的なストーリー進行をしながら、心を丁寧に追っていくことが不可欠だったのだ。そうして箱根駅伝で、読者は10人の心に触れる。

ああ、世界はこんなに豊かだったんだ。

爽快な読後感だけが残る。

芥川龍之介の恋文

芥川龍之介の恋文、やばい。

なんだこれは。

http://weemo.jp/v/f67f657a

こんな恋文をもらったら、好きになってしまう。

たとえ嫌いな相手からもらったとしても、この恋文にはグラッときてしまう。

こころがうつくしい。

罪だよ、芥川さん。

 

もうひとつ見つけた。

http://weemo.jp/v/946b3970

えっ、これもう惚れざるをえないのですが。

一度もあったことないけれど、こういう日本語を書く人になら嫁いでもいいや。

自分を預けてもいいと、決心できる。

 

平安時代の恋は、歌と書が決め手だったと聞く。

なるほど。芥川さんの文章がすばらしい筆で書かれていたら、イチコロだ。

http://www.sankei.com/life/news/171002/lif1710020004-n1.html

手書き原稿を見る。不器用な筆だ。けっしてうまいとは言えない。

でも、この不器用さがいいじゃないか。切実な想いを不器用な筆にのせて伝えようとする。

芥川さんはどういう思いで書いたのかなと考えてみる。悪筆だから読まれるのは恥ずかしいな。あいつのほうが字がうまいから、代わりに書いてもらおうかな。でも、この想いは自分の手で書かなきゃダメだ。字が下手なところも含めて、僕だ。

そう思ったかもしれない。

読み手は、たどたどしく綴られた想いに直接触れる。

不器用ながら、直接的な想い。今風に言えば、ギャップ萌え。

 

ああ、芥川さんは罪な男ですわ。\

フランク・ウイン『フェルメールになれなかった男』

フランク・ウイン(小林頼子・池田みゆき訳)『フェルメールになれなかった男――20世紀最大の贋作事件』(ちくま文庫、2014年)

 

友人からのおすすめ。「芸術家に対して我々が抱く諸々のイメージそのままの繊細かつ傲慢な画家が、自分を置き去りに先に先にと進む時代を恨み、「かつてありえた名画」を生み出すことで復讐する物語なんやで」。140字の推薦文がすばらしい。

すばらしいノンフィクション。とても面白い。原題は”I was Vermeer”。

 

「芸術とは、剽窃か、革命か、そのいずれかだ」(ゴーギャン

 

優れたノンフィクションは、エンタメ的な側面をもつ。

20世紀前半、フェルメールの贋作を作り出して、巨万の富をえた男がいた。名前は、ハン・ファン・メーヘレン。オランダ出身。

本書は、ハンが警察につかまる場面で始まる。ナチスに対しフェルメール作品を売ったことで、国家反逆罪の容疑がかかったのだ。「どこでフェルメール作品を手に入れたのですか?」。警察の問いかけに、ハンは答えない。いや、答えられない。自分で描いたと言えば、画家ではないことを認めてしまう。じゃあ買ったというか。そもそも買ったものではない。

自分こそが描いたのだ。

 

劇的な導入をへて、ハンの人生を追っていく。なぜ絵を志す少年が、贋作をするようになったのか。贋作のための技術をどのように身に付けたのか。作り上げた贋作を、いかにして売りさばいたのか。

ハンは、完璧主義者であった。繊細であるがゆえに、乱れをゆるせない。つねに理想があり、その理想に追いつけない自分にいらだっていた。もっと悪いことに、彼の理想はひとつ前の時代にあった。彼が魂をこめて描いた絵は、同時代の批評家から酷評される。けっして理解されない。

 

「ハンは、批評家のジョージムーアが力説するような、芸術家がまずやっておかねばならない訓練、つまり『どんなにひどい絵を描こうが、他の人ほどひどくなければ、かまうことはない』と考える訓練をしそこなったのだ。ちょっと生まれるのが遅くて、シュルレアリスムと抽象主義の時代に写実を看板にするのだから、自分にはたったひとつの選択肢、贋作者になる道しかない、と彼は悟ったのだ」126頁

 

贋作を作るには、怠け者ではいけない。キャンバスや顔料、溶剤まで完璧に当時のものを再現する必要がある。そのうえで絵を描く。古い時代に描かれたかのように、絵の具に亀裂をいれなくてはならない。贋作と真作を見極めるテストにも、耐えうるようにしなければいけない。考えてみれば、ウン十億の絵画を生み出すのに、生半可な技術や努力でできるわけがないのだ。しかし、彼はやりきった。

かつて、自分を酷評した美術界に、贋作を送りつける。バレるのではないか。いままでの巧妙に積み上げた技術は、一瞬で見抜かれるのではないか。もう生きてはいけないのではないか。追い詰められた彼の心境とは裏腹に、あっけなく「フェルメール作品だ」と判断される。彼は手に入れた金で、酒と薬に溺れながら、次々と贋作を作り続ける。そのうちのひとつを、ナチス幹部に売りつけた。

そうして本書は、警察につかまってからの場面を描きだす。

警察につかまり、牢獄で衰弱した彼は「近年発見されたフェルメール作品は、私による贋作である」と告白する。

しかし、誰も信じない。

「真作だ」と判断してきた美術家や批評家は、容易に自分の失敗を認めない。「彼のたわごとだ」と言いつづける。

結局彼は、法廷の場で、フェルメールの手法で描きだす。全8作品のうち、6作品は贋作であると認められた。しかし、薬とアルコールにむしばまれていた彼は、全盛期の構想と技量を発揮できない。美術界は、残る2作品は真作だと考え続けた。それでも、最終的には贋作だと判断される。

 ※

 

この物語の骨格を抜き出すだけでは、魅力は完全に伝わらない。

この本は、

「絵画とは何なのか」

という問いを我々につきつけてくる。

批評家が「いい作品だ」と言うから、我々も「いいなぁ」と受け取る。

専門家が「誰々の作品だ」というから、「誰々はいい絵を描くなぁ」と見る。誰々の作品だから、莫大な値がつく。

 

はたして我々は、何を見ているのか。

なまの絵を見ていないのではないか。

専門家たちは、絵を見るのではなく、絵に刻まれた画家の跡を見る。

一般人は、絵を見るのではなく、絵に附属された説明文を見る。

 

下のメモにあるような洞察が、ところどころで挟みこまれる。この洞察こそが、本書を味わい深いものとしている。

人間は絵をどのように見ているのか。絵の価値は誰が決めているのか。絵とは何なのか。人間とはどれだけ欲深い生き物なのか。

贋作と真作のはざまで、人間の欲望がうねる。

おもしろい。

 

メモ

「心で感じるがまま描くようにとおっしゃったので……」

「確かにそう言った。でも、それは知性によって制御されなければならないんだ、感情の赴くままではダメだ。君が自分の感情を支配するのだ」57頁

 

「あなたは罪な人だ。僕は画家だが、あなたのことだけはどうしてもうまく描けない」73頁

 

「批評家たちは、長い間温められてきた考えを具現する絵を発見するという考えに抗えなかったのだろう。贋作者は、批評家たちのそうした根深い願望の蓋を取り外し、それを実現しさえすればよかった」172頁

 

テレジア「人は、答えのない祈りより、答えのあった祈りの方にこそ多くの嘆きの涙を流す」

ジャン・バージャー「本物だ。だから美しい」

ふんどし

とつぜんだが、ふんどしを締めたことはあるだろうか。

真っ白な長めの手ぬぐいを股の間に通して、腰のあたりでクルクルっと巻いて、ギュギュっと締めつけるだけ。あーら簡単、3分くらいで締められる。

 

中学時代の夏休み、学校の課外活動のことである。

毎年の恒例行事として、1年生は、ふんどしを締めて東京湾を泳ぐ。最終日には遠泳をする。3泊4日の水泳合宿だ。

照りつける太陽のした、砂浜にずらりとならぶ白いふんどし達。背景には、東京湾の深い黒緑色をした海。コントラストが壮観である。

壮観なわけがない。

当の本人たちは、おさまりの悪い局部に違和感があり、割れ目だけ隠されたおしりに羞恥心でいっぱいになる。

「慣れ親しんだ水着を着たい!」

偽らざる本音だ。

 

悪いことは重なる。

そもそも彼らはどこで着替えるのか。宿舎である。雑魚寝をする部屋で、ああでもないこうでもないと言いながら、友人たちの局部があちこちで揺れているのを見ながら、必死にふんどしを締める。なんとか形になる。たまに締め方が間違っているやつがいる。外から見て変だったり、緩かったりしてしまう。あいつ、間違ってるな……とは思うものの、時間がないから放っておく。急いで外に集合する。

宿舎から浜辺までは、歩く。2列縦隊をとって、前進あるのみ。

滑稽な格好だ。上半身は裸。おしりの大半が露出し、局部は隠せているのか不安なほどスース―している。道は普通の舗装された道。ふつうに民家が横にある。たまーに車が通る。「前から車だから注意!」「交差点だからとまって」怒鳴るような声が上から降ってくる。まさか、猥褻物陳列罪とかでしょっ引かれないよね。

なんの罰ゲームなのか。

道行く人の視線が突き刺さってくる。大学生らしき女性陣は、あきらかに笑っている。いやお姉さん、ぼくたち必死なんです。なんならぼくも、ふんどしを見て笑う側にいたかったです。なんでこんなことになっているんでしょう。ああこの中学を選んだばっかりに、小学6年生のぼくのバカ。

 

浜辺につくと、準備体操の前にふんどしチェックが行われる。

結び方は間違ってないか、結び目がしっかり結べているか、締め方は緩くないか。OBや先生方が、ひとりひとりのふんどしをチェックする。前列から順々に、先生は回ってくる。みな自分のふんどしは大丈夫か、触って確認して、身体をひねって確認する。自分の順番が回ってくるのを待つ。

恐怖である。

奴らは、すこしでも間違っているやつを見つけると、喜々としてこう命じる。

「ふんどしを外して、締めなおせ」

同級生は驚いた顔をする。

「えっ、この砂浜で? 観光客もいますよ? 冗談ですよね」

ニッコリしながら、奴らは言う。

「大丈夫大丈夫。誰も見てないから。はやくやって」

そうして僕らは、絶望しながら結び目をほどくのだ。

 

ちなみに自分で締めなおせないと、OBが代わりに締める。他人に締められると、局部がギュっと締めつけられる。抵抗はできない……痛さと無力さで泣きそうになる。

次の日から、みんな必死で締めるようになる。

これが教育なのだ。当然、ほとんどの人は来年からは来ない。

 

けれど、何を思ったか。中学時代のぼくは、ふんどしを締める感覚がとても好きになった。高校1年まで毎年この合宿に出ていた。

ふんどしでしか得られない解放感があるのだ。