白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。冬眠するので春になったら起こして

野望を話せ

忘年会に出た。

先生と一緒に院棟で飲む。

知らない人も、知っている人もいる。

「野望を話せ」と言われ、自己紹介が始まった。

ぼくは、前の人にならって志望先を述べた。

二重のウソである。

その志望先に行く気はない。

たとえ志望先に行く気があっても、志望先を言うことは、野望を言うことではない。

でも、気恥ずかしいから、適当に仮面をかぶった。まあ、こんなもんでいいだろ。

最後のほうで、ある先輩が話しだした。

「仕事で名をあげて、本をいっぱい書いて、テレビにも出て有名になって、有名になって……」

どんどん盛り上がっていく人生に引きこまれる。

そのひとは一拍おく。

つぎにどんな言葉が紡がれるのか、気になる。

そして言い放った。

「死にます」

全員が息を飲んだ。

本人は、何でもないことを言ったかのように座った。

くそかっこいいなと思った。

この一瞬のためだけに、忘年会に出たようなものである。

周りは逃げに走って志望先しか言わないのに、この人だけは、どんなふうに死にたいかまで射程を広げて答えた。

野望というのは、その人間がどのような人生を送りたいかということである。

それはつまり、どのように死にたいか、ということでもある。

この死にかたはかっこいい。

ぼくなら、どう答えるか。

※※※※※を生み出して、死にたい。

今年が終わろうとしているのに、まだ守りに入っている自分がいた。

深町秋生『果てしなき渇き』

深町秋生果てしなき渇き』(宝島社、2005年)

 

おすすめされた。

読みながら、こういう本をおすすめするひとは、どういう人間なのかを考えていた。

 

暴力につぐ暴力が延々とつづられる。具体的で肉感のある描写だから、読者は暴力をする側になったり、される側になったりする。救いのない現実に、目をそらしたくなる。

登場人物はそれぞれに壊れている。

壊れているのは、渇ききっているからである。

何に? 

――愛に。

この作品の感想を書きながら、何に渇いているのかに触れないのはありえない。たとえ間違っていても言明すべきである。自分のなかに何も残さないならば、この本を読む意味はないし、読んだとはいえない。

彼らは、愛を渇望している。渇望しつつも、与えられないから、狂ってでも求めてしまう。

与えられないというよりも、感じられないといったほうが正しいかもしれない。感じられなくなってしまったのだ。なぜ、愛を感じられなくなったのか。

暴力である。暴力に蹂躙されて愛を感じるセンサーが壊れた。

さまざまな暴力がある。蹴る殴る刺す殺す強姦する……いくらでも挙げられる。自分で自分を追い込むのも暴力に含まれる。自分の魂に対する暴力である。

さて、暴力の本質は何だろうかと考える。

支配だ。

自分の意思を、相手の意思に反して押しつけること。思いどおりにならないから、物理的に相手を従わせようとする。

感じられない愛を渇望するとき、そこにあるのはむき出しの支配である。物理的な暴力で、渇望するものを達成しようとする。しかし、空しい。

果てしなき渇き。感じられないものを求めてしまうから、果てがないのだ。

求めれば求めるほど、空しい自分しかいないのだ。

 

三島由紀夫『小説読本』に、

「小説の読者は、非社会的な内的な動機を強くもちながらも、それを小説に託すことで解消する表面上善良な市民である」

という文章がある。

重い読後感に包まれながら、この一節を思いだしていた。

人間には黒い感情がある。けれど、その感情を行動に移してはいけないというのも、わかっている。

発露してはいけない感情に、どう対処するのか。

どす黒い感情が生まれてしまうのは、どうしようもない。他のことで気をまぎらわすばかりでは、積もり積もった感情に、いつか負けてしまうかもしれない。

ならば、適度に解消するしかない。それが人間である。

どうしようもなく発生してしまう「ぜんぶをめちゃくちゃにしたい。思いどおりにしたい」というような感情を、小説を読むことで解消させるのである。

 

こう書くのは必ずしも適切じゃないかもしれない。書かないほうがいいかもしれない。いちおう匿名ブログだけど、現実のぼくと少なからずつながっている。

この本を読んで、普段は見ないようにしている、どす黒い自分と対面した。彼が、どこか喜んでいるのを発見する。

重い読後感を包まれながら、にやりと笑う自分がいるのだ。

ぼくは、ここちよかった。

アニメ『ボールルームへようこそ』

ボールルームへようこそ』23話

アニメ版が原作を超えて、ちーちゃん×多々良君ペアの結末を描いた。

 

多々良くんは臆病で、自尊感情のないタイプだった。だから、他人にあわせるリードをしていた。

ちーちゃんは勝ち気で、他人よりも上にいる自分を愛するタイプだった。だから、他人にあわせるのが苦手だった。

正反対の人間をペアに組んで、最後どのようなペア関係を描きだすのか。とても興味があった。

この漫画の特徴は、ふたりとも変化させて、ペア間の一体感を描きだすことにある。

しかし、どうしても多々良くんの内面が中心になる。少年漫画だし、主人公だし、ダンスの方向を決めるのは男だし。

そう考えると、今回のダンス大会で、一番ひびいたのはこの言葉だろう。ちーちゃんから「今日は嘘をついちゃいけないよね」と言われて、続きの言葉だ。

「多々良の考えていることは、いまだにぜんぜんわからないけれど、

多々良っていう人間は見えてきた気がするよ。

     臆病者。

あんたは最高にいい奴だけど

わたしはもっと怖くて強い男が好き

 

多々良くんは、すごくうれしかったはずだ。

ちーちゃんと組んでから、ちーちゃんは、ぼくのことを見てくれないと思っていた。でも、ちーちゃんは、ちーちゃんなりにぼくのことを見ていた。

このひとは、ぼくのことをちゃんと見てくれて、ごまかさずにぶつけてくれるんだ。

このひととペアを組めて、ほんとうによかった。

自分だって自分の悪いところくらい知っている。知っているけれど、なかなか変えられないのだ。

ちーちゃんに、ズバリそのまま指摘された。

多々良君は考える。ぼくをちゃんと見てくれて、しっかり伝えようとしてくれる人間に応えるには、どうしたらいい?

――グダグダ考えないで、変われ。

この性格に、一番嫌気がさしてるのは、

ぼくだ

 

23話で、ペアの関係性に回答が出された。

ダンス大会の決勝に向かう場面。

ちーちゃんの言葉。ちーちゃんもちーちゃんで、自分の苦手なところと向き合ってきた。 

「わたしね、あんたって人間がいまだによくわからない。

最初はどうにかしてあんたをわかろうとした。でも結局、他人を理解したつもりにはなれても、ほんとうに理解するなんてできない。

だからもう、あんたをわかろうだなんて思わない」

「うん」

「行くわよ」

 

とても重要だと思う。

まずは、わかろうと試みるのだ。すれ違って、ぶつかって、いったんどこかに落ち着く。わかった気になる。

でも、やっぱり、わからないのだ。

相手を見れば見るほど、一瞬つかまえたと思った相手が、逃げていく。わかった気がしただけに、一層わからない存在になってしまう。

その状態を受け入れることが重要なんだ。わかろうとしてきたけど、結局はわからない。不安定な安定状態。それこそ人間同士なのかもしれない。

 

ダンスの道へ誘ってくれた先生が言う。

「他人ってのは結局不確定なものだ。

理解できないものが目の前にあるってのは、恐ろしいと思うか?

目の前にいるのはなんだ?

自分と別の存在がそこにいて、それを理解できないということを知ったとき、

それは、とんでもなくいとおしいものじゃないか

それだけで

自分が自分であってよかったと

そう思わないか」

 

わかりえない他者を認めることは、世界の拡がりを認めることだ。

理解できた、なんて自分のなかで満足しないこと。

理解できない、けれど、いま向かい合っている奇跡をかみしめる。

どうしようもなく、いとおしい。

1-4巻までの多々良君だったら、この状態を受け入れられなかっただろう。

自分が自分じゃなかったのだ。

自分と他人との境界線を見つけられず、ただ自分を他人に同化させることこそがペア関係だと思っていた。多々良君の世界にいたのは、自分だけだった。かりそめの他人を自分の世界に住まわせていただけなのだ。わかりあえない他者を認められなかった。

自分を見つけ出すことで、他者を見出した。

その他者と一体となって、ひとつのものを作り上げる。

ペア関係だ。

 

来週は第24話、最終話です。

見てきてよかった。

雑草――エッセーを読みながら自分を読む

「大切な情報をたくさん得ているかわりに、どうでもいい情報の洪水が、私の脳にはがんがん入ってきているのだ。

それを偶然にも一時的に中断してみたら、頭の中がすっきりした。どうでもいい情報はやっぱり害なのだ、とあらためて思った瞬間だった。どうでもいい情報は人間の意識をなんとなくぼうっとさせるのだ。

まるで旅行に行くように、あえて自分から情報を離れる期間をもうけるのは精神の切れが悪くなった時にとても有効だと思った。はじめは退屈にのたうちまわるが、時間が思ったよりもじっくりと流れていっているのを知ることになる。今まで、東京の時間の流れの速さは自然がないからだとばかり思っていたが、それ以外にも、大量の情報を処理するのに頭が忙しくて時間がどんどんたってしまうということもあるのかもしれない」吉本ばなな『バナタイム』(幻冬舎文庫、2006年)

 

エッセーを読む。

ぼくにとって、吉本さんの文章は、心を合わせるのが難しい。

文章を読むと、ぼくと吉本さんの世界はかなり異なっている感覚を受ける。異なるのは他人だからあたりまえだけど、より一層他人として迫ってくる気がするのだ。

吉本さんの文章は、内面世界を丹念に追っていくから、そういう感覚を受けるのかもしれない。

他人が息づいている。

とくに本の最初はとっつきづらい。

その人がどういう人間なのかが、わからないからだ。文章を読んで戸惑いながら、自分の心を、吉本さんにあわせて修正していかないといけない。

30ページくらいかかる。

どういうレンズを通して世界を見ているのかな。どういうふうに心が反応するのかな。ぼくは、吉本さんの感じる世界に親和性があるのかな。

まったく親和性がない場合は、ダメである。そのひととは根本的に違う。違いすぎると、どうしても読めない。

でも結局のところ、人間の心のパターンは限られている。限られていて、共通しているからこそ、ひとは物語に感情を動かされる。まして売れている人なのだから、いうまでもない。どこかに扉があるはずなのだ。

吉本さんの内的世界に通じる扉を、自分のなかに見つければいい。

この作業を、「心をあわせる」と言う。心をあわせた瞬間に世界が立ちあがってくる。心がぐるんぐるん動かされる。最後にすとんと落ち着く。いいものを読んだなと思う。

 

今年になって、心をあわせられるようになった。自分のなかをよく見れば、じつは他人と同じような心の動きをしているときがある。その一瞬を切りだして、想像して、身をひたす。そうすると、いままで他人として表れていた文章が、身近な存在に変わってくる。

自分のなかをよく見る、ということは難しい。わかったようでわからない。そもそも自分というちっぽけで醜くてダメダメな存在を、ゆるしてあげる必要がある。ゆるしたうえで受け入れる。ぼくは結構ゆるせないタチだった。思えば、相田みつをの「人間だもの」ということばは、他人に向けるばかりで、自分にも向けられたものだと考えたことがなかった。自分が矮小な存在だということを、なかなか認められなかった。

文章が他人として表れていたのには理由があって、じつは、自分のほうこそ歩み寄っていなかったのである。文章のなかで他人が生きているのに、それを理解しようとさえしていなかったのだ。心が固く閉じていた。

 

――つけ足し

この作業をしなくても、自動的に心を連れていってくれる文章がある。

エッセーだと、鴻上尚史さんがあげられる。なんでこんなに読みやすくて、感情が動かされるのかと疑問に思う。どんなときに読んでも、一瞬で文章の世界に引きずり込まれる。おもしろいから、次々と読む。ネットでも適当に出てきたから、文章を乗っける。エッセーじゃないのはご愛敬。

「つまり、退屈だと思いつつ顔を出すとか、飲み会でしゃべりたくないのに何となくしゃべっているとか、気を紛らわせてばかりいると「何が本当にしたいのか」「自分は誰と話したいのか」というのが分からなくなっちゃうんだよね。

自分にとって必要でないものは削ぎ落としていかないと。本当は何をしたいのか、何を求めているのか、誰と話したいのか、それが分からない状況で苦しんでいるなら、目の前にあるものを除くしかないでしょう。食べ物でいえば、飢餓を経験していないので自分の食欲と関係なく時間で食べているだけだと「自分が本当は何を食べたいのか」が分からなくなる。それと同じなんですよね。

1週間くらい一人旅に出てみるのもいいと思います。「どんな人を求めているのか」「何が嫌いなのか」をとことん考えると見えてくるんですよ。多すぎる情報を遮断して自分の心をごまかすことなく、自分がどんな恋愛を求めているのかを知る時間を作るのがいいと思います」

鴻上尚史監督が語る 恋におちるメカニズム2」https://allabout.co.jp/gm/gc/313022/

 

今年の中盤までは、いろんな情報で紛らわせていないと耐えられなかったのかなと思う。グワーってなるときがあって、その予防もあって、どうしようもなくツイッターに呟いていた。ツイッターを開けば見知った人間がいるし、何か呟けばふぁぼが返ってくるし、「さらけ出すのがソロだろ」(『ブルー・ジャイアント』)みたいに吹っ切れたのもあったし。

孤独じゃないと錯覚していられた。明確には意識しないけれど、たぶん寂しかったんだろうと思う。

でも、結局は錯覚だった。

孤独なんだ。

それを認める。自分に向きあう。できるだけ純粋に世界と向き合う。

福永武彦は、孤独のさきに、愛を試みると言った。ぼくはこの愛を、特定の相手に向けたものではなく、世界へのかかわり方だと読んだ。

世界へのかかわり方には、たぶんそれぞれに適した形があって、文章でもいいし楽器でもいいし身体でもいいし武術でもいい学問でもいい。ひとつじゃなくていい。どれでもいいけれど、自分を表現できる手法で、世界にひらいていくことが重要なんだと思う。もちろん世界には特定の誰かも含まれる。

ツイッターは、ぼくを閉じ込めていた気がした。どうにも世界にひらいていく気がしない。閉じた世界で、刹那的に満足するツールになっていた。

消費されるのは嫌だとか言いながら、消費される場所で生きていた。自分で自分を消費していた。たくさん、成し遂げたいことがあるのに。

バカだったなぁと思って、つい垢を消した。余計な情報は、いまはいらない。自分を立てるときである。

そうはいっても、たまにツイッターを見たくなるから不定期に復帰している。

人間だもの(白くま)。

見る

人は見たいものしか見ない。目の前にあっても、ちゃんと見ることができない。

と、よく言われる。正しい。

しかし、ぼくはこうも思う。

目の前のものをそのまま見るには、どうしたらいいのか。

見ることができないのだから仕方ないと諦めるのではなく、できるだけ見るための努力をしようと思うのだ。そのあとで、見ることができなかった場所を反省する。

いかに見るかについて考えるとき、専門家の目線を知ることから始める。何事も到達点を知ることは必要で、専門家サークルにこそ現代の到達点がある。もっとも、専門家になるわけではないから、一般向けの書籍で充分だ。

見ることは、美術・絵画と密接にかかわる。絵画を研究する人たちは、対象をいかに見るか、ということを延々と議論してきた。美術史家の目線を知ることで、いかに見るか、という問いに一定の答えを見出せる。というわけで、この3冊をおすすめする。

 

高階秀爾『名画を見る眼』(岩波新書、1969年)。

若桑みどり『イメージを読む』(ちくま学芸文庫、2005年)。

エイミー・E・ハーマン(岡本由香子訳)『観察力を磨く 名画読解』(早川書房、2016年)。

 

高階さんと若桑さんの本は、かなり似ている。両者の本は、「見ることは解釈すること」であると教えてくれる。どちらか一冊をあげろ、と言われたら高階さんをおすすめする。15の名画をどう見るかについて、必要十分に書かれている。ある時期までの絵画には、作者の意図が隠れている。その秘められた意図を、見る側が読み取っていくのだ。高階さんの本を読むとき、ミステリーの謎解きを味わっている感覚になる。極上のエンターテインメントとして読める。

とりわけボッティチェッリ「春」の解釈は、すばらしい。人生が変わった一瞬だった。大学一年のときに、絵画を見るとはこういうことなのか、と嘆息した。まず絵をじっくり見て、そのあとに謎解き編に移って解説を聞く。残る14作品も同じように謎解きとして読めるから、よい練習になる。

若桑さんの本は講義をもとにした本なので、文体がやわらかい。新書が固いな、と思う人はまずこちらから。重要なことに、なぜ絵の見方を身につけることが必要なのかに言及されている。絵画というのは表現なのだから、その表現にあった受容方法を知る必要があるというのだ。ルネサンスを中心にした美術史の入門として、うまい。ダ・ヴィンチの解釈にうならされたのを思いだす。

 

さて上記2冊で、美術史家の目線とともに、いかに見るかを体験した。見ることは解釈することである。解釈することは、遊びとして奥が深くおもしろい。

そのうえでハーマンの本に移る。これは、絵画の目線を現実世界に応用するにはどうするか、という視点から書かれている。ハウツー本である。絵画の目線を身につけても、現実で適用するには問題がある。絵画とは、一枚の静止画にすぎない。現実世界は常に動いている。じゃあどうすればいいのか。

本書は、①観察②分析③伝達④実践という4段階に分けられている。これらレッスンを続けていくことで、現実でも同じ視線を使えるようになるという。詳しくは立ち読みで、パラっとめくってもらえれば。

高階&若桑さんの本を読むだけでは、絶対に補えない箇所がある。自分の解釈を伝達する技法だ。ぼくらは両氏の伝達を受け取るだけで、けっして誰かに伝達しているわけではない。自分の見たものは何か、それは何を意味しているのかについて、他人にわかるように説得的に伝達すること。これができてはじめて、他者につながれる。

それぞれの箇所で絵画や写真を見ながら、ぼくらが実際に練習してみる。どれだけ見られていないのか、いかに分析が不十分か、いかに伝えきれないのか、いやというほど身にしみる。偏見まみれで、自分勝手で、受け手のことを考えていない。できているつもりで、おごるのがよくない。まったく絵画の目線を体していないダメな自分に直面する。

 

この本のよいところは、心理学の成果を盛り込んでいるところである。人間に備わった盲点を認識できる。見たいものしか見ない、目の前のものでも見ることができないと諦めがちに達観するのではない。そういう盲点が存在する人間として、どう世界を見て、解釈して、他者に伝達していくのか。その方法論を伝えているのだ。

相互に他者に伝達することができれば、コミュニケーションが生まれる。コミュニケーションこそが、人間に備わった盲点を極小化する効果をもつ。そうやって、世界を(できるかぎり)そのままに見ることができるようになる。

挫折

毎週、NHKドキュメント72時間』を見ている。

どうしても頭から離れない女性がいる。

禅寺体験の回。参加していた女子大生だ。

警察官になることが彼女の夢だった。そのために大学に行って、自動車免許もとって、たぶん身体も鍛えていた。

しかし、車を運転しているとき、人間を轢いてしまった。

急に人影が見えた。急ブレーキをかけた。「あたらないで!」と願う。驚いた表情が見に入る。ぶつかる。影が飛んでくる。ドンという衝撃が車内を貫く。フロントガラスにあたって、ガラスに放射線状の白いひび割れが走る。

いまさら遅いのに、車がとまる。同乗者が救急車の手配をする。

いつの間にかサイレンの音が聞こえる。

番組で具体的な描写はない。ぼくの頭のなかでは、一瞬で光景が広がった。想像だ。

彼女は、就職先を警察しか考えていなかった。幼いころからの夢だった。

「人を轢いてしまった私が、警察官になる資格なんてないと思ってしまって」「どうしていいかわからなくて」

だから、禅寺に座禅をしにきた。いつもの人間関係から離れ、自分を見つめなおして、将来どうするか考えるためにきた。

彼女はこの話を初対面の相手に打ち明ける。「なんで禅寺にきたの?」という問いかけに、自分の本心を明かす。いままでの自分を知らない人だからこそ、話せることもある。打ち明けながら、泣きだした。あたりまえだ。

現在進行形の挫折である。

「こんな話をしちゃって、すみません」。

いいんだ。

そういう話を心の底に閉じ込めておかずに、誰かに打ち明けるために来たんだから。話すことは、自分を救うことだ。いつか泣かないで話せるようになる。泣くときは泣いたほうがいい。

言葉にしているだけで、十分がんばっている。もっと自分を褒めていい。

 

思いだすたび、この人はどうしたのだろうと気になる。

夢だった警察官に向けて再出発できたのか。それとも、まったく別の就職先を考えているのか。

もしくは車には乗らないけれど、警察官と似たような役割の職を見つけているのか。

挫折してから、ほんとうの人生が始まる。

 ※

 

たぶん、ぼくが気になっている理由は、自分の挫折を思いだすからである。

自分の記憶を思いだして、そのときの感情を再体験しているからだ。

ザラザラの砂粒にずっと沈んでいくような感覚。周りの砂に身体が圧迫されて、手足が動かない。呼吸をしようとすると、砂が入ってきてじゃりの味がする。ザラついた心を感じる。もう一生、この空間から逃れられないんじゃないかと思う。あとの人生は息をして消化するだけなのかとあきらめる。

こういう描写を読んで、わかる人とわからない人がいる。わからない人は、それだけ幸せな人だ。ほんとうの挫折をしていないから。でもかわいそうな人かもしれない。挫折をしたのに、「あれは挫折じゃなかった」と自分に嘘をついているかもしれない。または、情熱を注ぎ込む何かを見つけられず、挫折さえできないのかもしれない。

わかる人は哀しい人である。挫折をしてしまって、その挫折を挫折として認識した人である。何かになりたかったorしたかったのに、どうやっても無理なんだと気づいてしまったからである。でも、わかってしまう人は、挫折と折り合いをつけながら、すこし方向転換をして生きているのではないかと思う。そう信じたい。

挫折をしてから、他人の挫折に対して愛を感じるようになった。

何とか回復しますように。傷ついて閉じた心が、またやさしく開けますように。前を向いて、また踏み出せますように。沈みきっているときにも、たったひとりでいいから、誰かが側にいてくれますように。

涙がにじんでくるのを感じながら、ひとりで祈ってしまう。

 

挫折を描く物語は、ほんとうに好きだ。

挫折を描くとき、主人公には、何かに熱中するプラスのエネルギーがある。挫折して、エネルギーが極端なマイナスに振りきれる。絶望する。

そんなときでも、心配して寄り添ってくれる人がいる。

そばにいる人間の体温を感じて、自分を見定めて、また前を向いて動きだす。ひとまわり大きな人間になっている。

これこそが人生なんじゃないか。

 

というわけで、さいきん読んだ挫折と再出発の物語。

和月伸宏るろうに剣心』(集英社):妻を斬ってしまった主人公・剣心は、人斬りを封印して逆刃刀を使っていた。しかし、亡妻の弟の復讐を受けて、目の前で好きな女性を殺されてしまう。

不殺の誓いは意味なかったのではないか。またしても、守りたい人さえ守れなかった。刀にしがみついたばかりに、あの子を巻き込んで殺してしまった。もう刀を捨てよう。生きている意味なんてない。

剣心が絶望した以降の物語がとても好きです。物語構成上はちゃんと死ぬほうが正しいんだけど、まあこれくらいは。正直、死んでほしくない。

一番驚いたこと。「るろう」に剣心ではなくて、「るろうに(流浪人)」剣心だったんですね。志々雄編までは物語の流れがなくて(=何を描きたいのかわからず)退屈だった。乗り越えると、閉じた心を救う物語を描きたいんだなと理解した。

 

奥乃桜子「あやしバイオリン工房へようこそ」

http://r.binb.jp/epm/e1_63801_14112017135736/

12/27日まで読める。とてもオーソドックスな短編。

バイオリンの才がなくてプロをあきらめ楽器店に就職するも、愛着あるバイオリンをただの商品として見ることはできず解雇される。「バイオリンなんて好きじゃなかったんだ。違う人生を歩もう」と思い込もうとするものの、ふとバイオリンの精に導かれてバイオリンと出会いなおす。「ああ、そうか。自分に嘘をついていたんだ」。

 

おかざき真里『阿・吽』(小学館

ことし一番の漫画で、後世に残る傑作。ブログに書きたいのだけれど、魅力を書ききれないから躊躇している。

絶望という意味では第2巻。「天才のそばにいて絶望する凡才」を描く。自分も努力して才能があるけれど、天才と同じレベルにはどうあっても到達しないんだという絶望を味わう。努力したからこそ、天才との距離がわかってしまって一層絶望するというのがキモ。それでも、生きていく。発狂パターンだと映画『アマデウス』もどうぞ。

 

道尾秀介カササギたちの四季』(光文社文庫、2014年)

この人は、短編にこそ特徴が出ると思う。いい具合に力が抜けている短編集。

「夏――蜩の川」には、絶望がある。ネタバレになるから言わない。この本の白眉は、「秋――南の絆」だけれど。ウソの魔術師。

高橋留美子『めぞん一刻』

高橋留美子めぞん一刻』文庫版、全10巻(小学館

 

愛するひとを突然失った人間は、ふたたび誰かを愛せるようになるのか。 

映画『普通の人々』では、母親は溺愛していた息子の死を経験して、愛を表現することも受け入れることもできなくなった。自分の感情をまっすぐ見つめることが怖くなって、感情を動かさないような外形的な安定を求めた。極度に自己防衛的になった。

では、結婚した直後に、結婚相手をなくしたらどういう状態になるか。直後の反応ではなくて、心の底に刻みつけられる刻印を想像したい。

めぞん一刻』は、響子さんの物語である。

 

「ひとつだけ、約束……守って……

一日でいいから、あたしより長生きして……

もう、ひとりじゃ、生きていけそうにないから」

 

物語のコアは響子さんの心にある。

出会って間もないころ、酔った五代くんは「私こと五代裕作は、響子さんが好きであります!! 響子さーん、好きじゃあああ」と大声で告白する。ちょっとした誤解はあるものの、響子さんは五代くんの好意を認識する。

けれど、衝撃の事実が明かされる。響子さん(22)は夫と死別していた。

ここで想像力を働かせる。結婚して幸せの絶頂期にある人が、突然、愛している人をなくしたらどういう状態になるか。直後の反応ではなくて、心の底に刻みつけられる刻印を、自分のこととして推しはかる。

たぶん、ひとりで生きようと思う。怖くて、誰も愛せなくなる。だって、つぎに好きになった人がまたいなくなってしまったら、もう耐えられないから。そのつらさを知ってしまった。

誰かに好意を示されても、反射的に拒絶するだろう。だって、他人の好意は自分を試してくる。ましてその人がいい人だとなおさらだ。「なぜ自分はこの人を好きになれないのか」「なぜ、いない夫と比べてしまうのか」「むげにはできない」「ほんとうに好かれているのか」「信頼していいのか」

「信頼して好きになって、裏切られたら立ち直れない」

だからこそ響子さんは、のらりくらりと五代&三鷹の好き好き攻撃をかわしていたのだ。まだ傷は癒えてないから。愛を完全に信じられないから。自分を信じられないから。

この種の愛の拒絶は、じつは、それだけ愛を求めていることの裏返しである

そういう人が選ぶのは、いつも隣にいて心を安らかにしてくれるひとだ。無条件に愛を示しつづけてくれて、隣にいるのが心地よい人。

だから、スペック上では完全優位な三鷹ではなくて(響子さんが三鷹を振るシーンはすばらしい)、五代くんが響子さんと結ばれたのだ。何年も一刻館で過ごした五代くんしかいないのだ。

 

――付け足し

恋愛恋愛している漫画を、読めなくなってきた。今回読んだのは、文庫版の1,2,9,10巻だけである。物語のコアだけを読んだ。

「決定的なシーンを先送りにするな。ほら、あと少しなんだからさ!」と思ってしまうのだ。

決定的な瞬間を阻むのは、周りの人だったり、状況だったり、当事者の心だったりするのだけれど、そういうものを中心に設計された漫画を読むのは、もうダメなのだ。じらされるのはいいけれど、この先何巻もじらされ続けるのか、と気が遠くなるのは受け入れられなくなった。

「決定的な瞬間を回避しつづけるエピソード」を延々と描くことによって、最後、決定的な瞬間を描いたときの感動が増幅することはわかっている。わかっているのだが、途中のループに耐えられなくなってしまうのだ。昔なら「ああ、わかるよその気もち……素直になれないんだよねぇ。そういうもんだよねぇ」と自分を重ね合わせて、ずっと味わっていられた。でも今は、途中で「ああ、またこのループにはまったよ……」とげんなりしてしまう。焼き肉を食べに行ったのに、脂を食べられなくなっている自分に気づく。歳をとるって、こういう楽しみを捨て去ることなんだね。悲しい。

木造アパート『一刻館』の住人を中心に、四季折々、日々のできことを描いていく。主要な恋愛模様は、管理人の響子さん、頼りないけれど人好きのする五代くん、爽やかスポーツイケメン金持ち三鷹の三人。響子さんを、男二人がとり合う展開。ただし、どう1,2巻を読んでも、響子さんと五代くんがくっつくとわかる。

心に傷を負った人間が求めるのは、無理に自分を飾らなくてもいい相手なのだ。これは真理だ。

だからこそ、2巻を読んで9巻まですっ飛ばした。今の心の状態では、3-7巻を読むことはできない。

ループが苦手なひとは周りにもたくさんいるから、こういう読みでもいいんですよ、というのはラブコメのすそ野を広げると思う。3-7巻はすっとばしてもいい(個人の意見です。ほんとうにごめんなさい)。微妙な心の揺れを味わいたい人は全部読む。物語のコアを読み取りたい人は、1、2、9、10を読む。読みたいものが違うのだから、衝突せずに住み分けできるはずだ。