白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。

京都のちっちゃな大仏さん

京都に大仏がある、という話を聞いて方広寺に行ってきた。

鴨川の東側、五条から七条の間に正面通という道がある。その由来は、大仏の正面にある通だから。ということで正面通を東に進むと、報国神社に行きつく。

おかしい。大仏がいないじゃないか、と思いながら、お参りをする。ひょうたん型の絵馬がかわいい。

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大仏はその横にいた。方広寺である。

大きな鐘があって、隣の建物のなかに大仏さんがいる。写真は禁止。ガラスで仕切られていて、光が反射して見えづらい。残念なことに小さい。鐘のほうが大きいくらい。


f:id:rjikumaru:20170815231410j:image(鐘の天井画がきれい)

いずれにしろ、京都のちっちゃな大仏さんを見た。

さいきん読んだ本とか。

 

村山由佳『星々の舟』(文春文庫、2006年)

短編連作集。すんごい。

直線的な幸福ではなく、ねじれきったすえの、一抹の幸せを描く

「自分だけの足で独りで立つことができてこそ、人は本当の意味で他の誰かと関わることができるんじゃないか」

グワっと感情の揺さぶられる瞬間が4つくらいある。すごい。読むのに心の体力がいる。

 

山本文緒プラナリア』(文春文庫、2005年)

何かに属していることは、何かに制限されていることで。でもその状態は安心で、という。何にも属していないとき、ともすれば発狂しそうな心の内面を描いた短編集。

 

重松清『ビタミンF』(新潮文庫、2003年)

むかし読んだことがあるけれど、いま読むと迫ってくるものがある。「もう歳だしな……」昔のような勢いがなくなった中年男性の、「でも、まだやれる」という心の奥底を救いだす。家族のなかの中年男性。わかってしまう歳になりました。

 

森絵都『カラフル』(文春文庫、2007年)

既視感を憶えて読む気が失せてしまう冒頭の設定。しかし文章がきれいで、心情を丁寧に描いていくから不思議とスルスル読んでしまう。仕掛けも、種明かし前に気づくだろう。静かな感動がある。

森絵都『アーモンド入りチョコレートのワルツ』(角川文庫、2005年)

心情を丁寧に描いていくのがうますぎてもう。しかも年齢にあった語彙を遣いながら、世界認識(その転換)を浮き彫りにしていくうまさ。

 

伊坂幸太郎石田衣良、市川拓司、中田永一中村航、本田孝好『I LOVE YOU』(祥伝社文庫、2007年)

短編のアンソロジー。短編の醍醐味がある。

 

鴻上尚史『ロンドン・デイズ』(小学館、2000年)

鴻上尚史『真実の言葉はいつも短い』(知恵の森文庫、2004年)

ロンドンの日記はおもしろい。エッセイもうまい。いろいろ飛んで、くるっとひねって着地する。好きなエッセイ。演劇論もおもしろい。

 

綿谷りさ『インストール』(河出文庫、2005年)

「平凡なようで何かが少しずつ崩れていくような違和感を終始感じられるところとかすき」とは友人の弁。その違和感を沁みいるように感じさせてくる、流れるような文体がすごいと思う。

 

雑想

たとえば大事な人とひさしぶりに会って、

「いま何をしてるのかな。無理する性格だから頑張りすぎてないかな。ストレスため込んでないかな。楽しく生きてるかな。訊きたいけど、久しく連絡してなかった身でこんなこと言うの迷惑だろうな。言葉でうまく伝えるの苦手だしな」って胸がいっぱいになって、

結局「どう? 元気?」としか言えないような関係性で生きていくのかと思う。

合気と居合の足さばき

夏休みなので居合をしている。合気と居合とで足さばきに大きな違いがあるなぁと理解してきた。

 

富木流合気道の足さばきは、基本的に半身を作るためにある。前足を相手に正対させながら、後足を45度ほど開く。重心を体の真ん中にもってきて相手に正対するために、膝を入れて動く。基本的に後の先(相手の動きの起こりを捉えてから、動き出す)をとるので、半身が合理的になる。

 

 

いま無双直伝英信流居合道を稽古している。英信流では、基本的に相手に正対する。前足と後足は進行方向に並行である。足が並行になると、腰が相手に正対する。腰が相手に正対すると、正中線上を通る刃筋に狂いがなくなる。

 

ぼくの人体構造の理解だと、なにも考えずに一歩前に足を踏み出したとき、くるぶしがついているかかと部分が引きずられて、半身に近い体勢になってしまう(もしくはかかとがもちあがる)。それは重心が両足の中心にあるからである。たとえば前に歩くとき、多くの人の靴底は外側からすり減っていく。つまり、かかとから接地する瞬間に、外側から内側への重心移動が起きている。身体の重みを支えながら前進するときに、上体をできるだけ一定に保つには、すこしでも重心を内側に寄せたほうが経済的だからである。走るときには一目瞭然である。走っている人を正面から見ると、両足の接地点は肩幅よりも内側の一直線上を志向する。体重移動がしやすいのである。

 

3か月間、少しくらいしかたないじゃないか、と思っていた。

しかし鏡の前で足の傾きを微妙に変えながら腰の動きを確認すると、両足を並行にしないと腰が正対しないのである。すこしでも正対していないと、腰が正面から外れ、真っ向切り下ろしにブレが生じる。刀を振ると、たしかに音が違うのである。並行にしないと鋭く切り下ろせない。つまり眼前の敵を斬ることができない。不十分な斬りこみになり、逆に斬られる。殺されてしまう。

 

このことは、合気をやっていたときに、正中線から外れていたのではないかという問いを提起する。いまのところ、「合気では膝を入れて上体を操作するのに対し、居合は膝を入れない。正中線の操作の仕方が異なる」という理解になっている。居合で膝を入れないのは(腰は入れる)、刀という重いものを振るときに膝のやわらかさで斬撃の威力を相殺させないためである。

 

合気道は相手を制する業であって、居合道は敵を殺す業である。

 

考えていくうちにまた違ってくるかもしれない。

自己満足

目の前に車椅子に乗っている人がいる。付き添いの人はいない。

その人は坂道を前に、すこし停まっている。ぼくは、手伝わないほうがいいのか、手伝ったほうがいいのか。いつも迷う。

 

ひとりで車椅子を使う人は、基本的に介助がいらないからこそ、ひとりで生活している。坂道を上るというのは普通の生活の範囲内であって、大変かもしれないが対応してきたのだろう。事実、腕はそれなりに太い。車椅子に乗りなれている証だ。下手に助けようとすることは、ひとりで生活できる個人を、そういう存在として認めないことを表してしまう。こう考えて、何もしない選択肢をとる。周りの人も横をすり抜けていく。

 

一方で、何かしないといけないとも思う。車椅子で坂道を上るには筋肉を使う。停まっていた理由は、その坂が車椅子で上るには急なので、息を整えて「えいやっ!」と上ろうと思ったからかもしれない。普通の生活はできるのだろうが、こういう場面では車椅子を押すのが正しいかもしれない。

 

結局「大丈夫ですか。押しましょうか」と声をかけ、車椅子を押した。

車椅子は、その人の体重と坂の角度とで、とても重かった。最初はぜんぜん動かず、腰をいれてはじめて車椅子は動きだした。坂を上ると、重みがふっと消えた。「ありがとうございます」と言われた。

 

一日中気分がよかった。

 

所詮、自己満足だ。

この自己満足は、そんなに嫌いではない。

誤解していた感謝

ある選手がオリンピックの表彰台に登る。左胸についている日の丸ワッペンを握りしめながら、国家が流れるのを聞く。首から金メダルがぶら下がっている。手にもって上げたり下げたり、歯で噛んだりする。

授与式が終わると、定例のインタビューが始まる。

 

――いまのお気持ちはいかがですか

――みなさんに感謝したいです。まず両親や兄妹にありがとうと言いたい。ここまでやってこれたのも、家族の支えあってのことです。そして友人に……テレビを見て応援してくれていた日本のみなさんにも……

 

こういうシーンを見るとシラケてしまうのだ。

うそっぱちだ。マイクを向けられると、口をそろえて感謝感謝感謝。それしか言わない。テレビに映るし、好感度の問題はスポンサー関係にもかかわってくる。表だけは、そうやって取り繕うんだろ。

本心は別にあるんだろ。「このメダルを取れたのは、努力した自分の力です。このメダルのために、いろいろなものを犠牲にしてきました。しかし後悔はしていません。あとほんのちょっぴり、みなさんに感謝しています」。そう思っているはずなのに、誰もそう言わない。

うそだらけだ。そう思って、テレビを消していた。

 

 

どうしようもないバカだった。

いまならはっきり言える。むかしのぼくは、間違っていた。

 

勝つためには努力が必要だ。その努力は、結局は自分自身で引き受けなければいけない。仲間もいるけれど、強くなるためには孤独のなかで自分と対話して成長していくことが不可欠だ。自分自身の孤独な努力。これが必要なことは間違いない。

ふつうのレベルなら、自分だけで孤独を引き受けて勝つこともできるかもしれない。自分の努力だけだと言うこともできるだろう。しかしオリンピックのような世界は別世界である。血のにじむような練習、勝ち続けないといけない重圧、周囲の無邪気な期待。想像できないほど、精神に負荷がかかる。そうして一流のなかのトップを目指す過程で、どうしようもなく自分の心がさらけ出される。どん底を経験する。自分の弱さと対面することになる。

 

人間は弱いのだ。

 

どん底では、競技を続ける気力が残っているのかという問題がつきまとう。頑張り続けて、それでもどこかで挫折して、もうこんな歳になってしまった。これしかないけれど、これ以外もできない。もう疲れた。やめちゃいたい。もう耐えられない。逃げたい。

こうなってしまったとき、人は、自分だけでは立ち直れない。

支えてくれる誰かが決定的に重要だ。支えてくれる人のことを認識して、その人の想いも背負うことで、「ひとりじゃない。やらなければ」と覚悟する。こうしてどん底から再起する。努力しなければと思う。気力が戻ってくる。

 

これを乗り越えると気づく。自分が努力できたのは、支えてくれる人がいてのことだ。支えてくれた人を支えていた人もいたはずだ。みんなつながっている。メダルを取れたのは、そうしたつながりの結果でしかない。

 

ぼくは間違っていた。

みんな感謝に行きつくのだ。ありふれた言葉なのは、あたりまえだ。

自分の頭で考える――京大の試験

自分の頭で考えるとは、自分勝手に考えることではない。ある視点から、あるツールに則って、考えることである。

 

京大での前期試験をだいたい終えた。

学部時代を過ごした慶應と、大きく異なる点があった。解答用紙の量である。京大の方が圧倒的に多い。慶應はB4の用紙に両面に細い罫線が引かれている。紙はペラペラで薄い。書いていると、机の固さが手に伝わってきて疲れる。

京大のはA4の用紙に計8ページ分罫線が用意されている。画用紙まではいかないけれど厚みのある紙が使われ、机の固さと遮断されるから長時間書いても疲れない(慶應ほどには)。さらに表紙までそろっている。まさしく解答「冊子」なのである。試験が終わって冊子を作り上げると、「書いたなぁ」と重みが実感される。

 

ざっと見るところ解答に費やせる文字量が雲泥の差である。慶應は多くて2千字ほどだが、京大は5千字ほど書ける。試験時間は慶應だと50分が基本で、京大だと80分が基本となっている。京大では、解答冊子に「ボールペンで書け」との指示がある。徹底的に「書け」と言っている。

 

「A4用紙8ページを、問題解きながら80分で手書きせよ」という要求は、普通の人間の限界を超えている。つまり要求されていない。この解答冊子が言っているのは、「どれだけ書いても解答用紙がなくなることはありえないから、論旨に必要な分を自分で把握して好きなだけ書いてね」という優しい親心である。またの名を、自由放任主義という。

 

「自分で必要だと思う量を決めて書いてね」

これは怖い。試験問題を解くだけではなくて、「必要十分な量で解答せよ」という制限にも答えなくてはいけない。

 

物量に制限がないとき、困るのは「簡潔に答えよ」という設問である。

解答欄が制限されていれば、「この量なら、このくらいしか書けないから、このくらいまで書こう」という決心がつく。つまり外側から簡潔性が決まる。

いっぽうで解答欄が無限にあるとき、外側の簡潔性には頼れない。重要度が高いものから書いていって、途切れたところで終えるという戦略がとれない。徹頭徹尾、自分の頭で簡潔性を判断しなくてはいけない。

 

冒頭に戻る。

自分の頭で考えることは、視点を設定し、ツールを設定して、対象を分析することである。これは自分を縛っていくことに他ならない。

素人と専門家の違いは、ここにあると思っている。ある問題について迫るとき、自分を中心に迫っていくのか、対象を中心に迫っていくのか。すなわち、外在的に分析するのか、内在的に分析するのか。

自分を中心に、自分勝手に分析するのは簡単である。テレビのワイドショー的に言い放題すればいい。あーだこーだ好き勝手に表明し、それの総体として何か言った気になる。いっぽうで、対象を中心に、内在的に分析するのは難しい。どのような視点で、どのようなツールで分析するか。この設定で結論が変わってくる。その分析の過程が正しさを担保する重要な要素となる。その正しさは、わかる人にはわかる。

対象を分析するのに適切な視点とツールを設定して、自分の思考を縛ること。これが自分の頭で考えることである。

 

ぼくは「これこそが自由だ」と考えるけれど、「自由じゃないじゃないか。自分はどこにいるのだ」と思う人もいるかもしれない。

考えてもほしい。自分を制限するものがない状態で考えることは自由なのだろうか。

そもそも人間は、さまざまなものの影響を受けている。当然考えかたにも影響している。その人間が自分の頭で考えたとしたら、その思考は、影響を受けたさまざまなものがあらわれてしまう。怖いことに、これは無意識のうちの作用である。言い換えれば、無意識のうちに、さまざまなものの制限を受けた思考をしている。これのどこが自由なのか。実際に制限されているのに、その制限を制限と感じないままに「自分の頭で考えた」などと言うのである。

そう考えると、あえて制限を受ける方法論を自分の頭で選びとることは、自由なのである。通常時に無意識に働いてしまう思考から自分の選択で抜け出ることは、制限を制限として認識することから始まる。無意識の制限から離れて、意識的な制限のもとに身を置く。自由だ。

 

「簡潔に」という要求は、「対象を内在的にみたとき、その骨格だけをピンポイントに」という要求である。試験であれば、これは単純な要求である。講義であつかった視点とツールを使って対象を見たときに、外せない骨格を抜き脱せということだからだ。そこに自由はなくて、従うべき思考枠組みは用意されている。

だからこそ怖いのだ。講義で示された思考枠組みを正しく内面化できているかは、「簡潔に」という設問で一気に表面化する。見る人が見れば、一瞬で判明する。講義をしている本人からすれば、わからないわけがない。

 

試験中、このくらいでいいのか。短すぎやしないか。もしくは、こんなに書いていいのか。長すぎやしないか。という問いがつきまとう。

しかし要求されているのは、「必要十分に書け。物量は気にするな」というきわめて正統なことである。単純に骨格を抜き出せばいい。そのためには、思考枠組みを内面化することを意識すればいい。

思考枠組みが内面化できたかどうかは、記述式で判断するのが手っ取り早い。だから記述式で問題を作る。すがすがしいくらいに論理的だ。何が問われているかがわかるから、安心して問題を解ける。こういうふうに問題を解いていることは、書けば伝わる。「あなたのしたいことを理解しましたよ。どうぞ採点してください」。ニコニコしながら問題を解いている。こういうのは楽しい。

 

京大で試験を受けて、これが大学なんだよなぁと思った。