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白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。生態日記。

セネカ『人生の短さについて』

セネカ(中澤務訳)『人生の短さについて他2篇』(光文社古典新訳文庫、2017年)。

 

とりあえず表題作だけ読んだ。

多くの人の人生は、他人のために浪費されるのみである。そうした人生は他人を中心に回るから、多忙を極め、人生は短い。

いっぽうで自分の人生を生きている人にとっては、人生は長く充実している。人生を、自分に取り戻すことが大事である。

 

ある研究者の先輩と話したとき、「学生のうちは自分の関心と社会の関心をすり合わせなくていいんだよね。ぜんぜん重ならなくていいの。好きにやっていい。それが学生の特権。でも社会に出るときには、自分と社会の関心が重なり合う場所を探さないといけない。そうじゃないとやっていけない」といっていた。

そのときも、概念上は理解できた。でも最近は、身に染みて理解できる。どこかで重なるところを見つけ出さなければ、自分のこころをすり減らす一方であり、こころの弾力が消え去ってしまう。

 

なにごとも「自分を知る」という問題に行き着く。世界で一番長く過ごしてきた人でありながら、外からは観察できない他人。もっとも身近な他人、自分。

『「自分らしさ」の構造』では、その見つけかたについても触れていたなぁと。

曼殊院、修学院離宮

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修学院離宮 http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/shugakuin.html

 

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曼殊院http://www.manshuinmonzeki.jp/index.html

 

2017年5月18日に、この二つに行ってきた。ついでに御霊祭も見た。お祭りは関東と変わらないので割愛。古楽の笛の音が美しく響く。

(註:自分の日記では各所に写真が入っているのだけれど、アップロードがめんどうなので割愛)

 

修学院離宮を見学するには、事前申し込みと当日受け付けの二種類がある。事前申し込みは少し面倒だけれど、あらかじめ予約ができるのと午前の時間帯を設定できるのが大きい。当日申し込みは、1330と1500の回だけであるうえに、現地の門まで行かなければならない。

12時くらいに行って、1330の回を予約した。この時期は、意外と遅くまで人数が埋まらない。1500ならギリギリに行っても大丈夫な感がある。

 

時間まで、近くの曼殊院に行くことにした。 

院内の写真は禁じられている。庭も有名だけれど、一部は改修中で、いま見るのはあまり適さない。

これはすごいなと嘆息したのは、孔雀の間と不動明王坐像、立華図。

孔雀の描き出すときの筆遣いがそのまま伝わってくる。ふすまの色をうまく残すことで、羽の紋様が浮き出て見える。立体感のある孔雀が左右に配置されるので、あたかも孔雀に囲まれているかのような感覚がある。

不動明王坐像は、不定期で公開しているらしい。焔の形をした光背が前にせり出していて、明王の顔よりも前にある。照明も赤黒っぽく、雰囲気がある。

縦長の和紙の下側に配置された生け花の画。線が細いのに力強さがあって、そのときだけのはずの生け花が、いまも生きている感じがする。和紙の白によく映える。

そのほかにも、卍くずしの欄間や、無窓の席、曼殊院棚なんかは何も知らなくても美しいなあと思った。

拝観料は600円。坂がかなりきつい(ママチャリを押して上った)。けれど、苔が美しいし、青もみじがいい感じ。

 

 

1330からは修学院離宮へ。

地元民なので自転車で行く。山のふもとなので、なかなか坂がきつい。50人以上いた。 

京都御所のような自由参観方式ではなく、ガイドさんについていく形。ご年配のかたがほとんどである。はぐれると、閉ざされた門のなかへ入れないし、出られない。緊張感がある……というのは冗談で、一番後ろを皇宮護衛官のかたがついてきてくれる(監視される)。 

棚田のど真ん中に御所を作ったので、見学する三つの場所以外は田んぼだったり畑だったり。なおいまの時期は田んぼに水を優先的に回しているため、庭園には水が少ない。残念。

一番上には、池がある。ここでキノコ狩りや月見を行ったらしい。池に映った月を眺めながら、眼下には洛中と御所をおさめる。風雅だ。

全行程で60分ほど。ずっと歩きっぱなしである。30度近い日のお昼だったけれど、風が抜けていくからそれほどつらくはない。雨が降ったら大変かもしれない。備えつけの傘があったので、それを使うのだろうとは思うけれど、雨の日には行きたくないかな。

紅葉の時期にまた来たい。

なんの研究をしているんですか

誰かに会うたび、「大学院生です」と自己紹介する。

嘘ではない。大学院に籍を置いているのだから。

わかっている人たちは、続けてこう問う。「なんの研究をしているんですか」。ぼくは学部卒論の内容を答える。

嘘ではない。あの論文は、考察すべき点をいくつも残している。考えていないことはない。

 

しかしながら端的にいって、ぜんぶ嘘である。上の回答は、すべて詭弁にすぎない。ごまかしだ。

自分がよくわかっているし、同等かそれ以上に、相手側にもわかってしまう。

 

とある政府系シンクタンクの説明会に出た。

このシンクタンクは近年採用に力を入れており、今年はとくに採用枠が多い。この先も、この分野の研究を地道に続けていれば、博士途中には拾ってもらえそうな感がある。

周りにいた人のうち3人からは、黴臭い史料の山に埋もれて研究をしてきた人特有の雰囲気が感じられた。類は友を呼ぶというけれど、なんとなく同類のにおいはわかる。

同じにおいがした。正確にいえば、学部2年までのぼくと、同じにおいがした。

 

いまのぼくからは、どこをほじくり返しても同じにおいはしない。

 

質疑応答で、目の前の研究者にもわかっただろう。ぼく程度がにおいの違いに気づくのだから、その世界で何十年とやってきた人が気づかないわけがない。

「こいつは研究をしていない」

確実に伝わった。そのことがはっきり伝わってくる。ぼくは場違いな存在だった。

 

去年すこしだけ就活をやった。ある新聞社の面接で、「あなたは、価値を感じていない仕事もできますか」と訊かれた。

訊かれた瞬間、どう答えればいいのか、迷った。当然、価値を感じていないことなどやりたくはない。けれど面接という場では「できます」と言わなければいけない。できます、というようなことを、たどたどしく答えた。その後の連絡はなかった。

 

研究をしていない院生という、矛盾した立場にある。

そうしたところにいるのだからと、いままで関心のなかった講義を中心にとっている。食わず嫌いなだけであって、すこし勉強すれば楽しいところが見つかると言い聞かせながら、「つまらない」という感情を飲み込んで日々を過ごしている。

北方兄さんに怒られそうな生きかたである。

京響「ブルックナー第5交響曲(原典版)」

京都は、今年初の真夏日だった。31.7℃。まだ5月ですよ……

情報どおり、風が吹かない。乾燥しているのだけが唯一の救いだ(それも今後は蒸してくる。考えたくない)。

こんな暑い日に京響定期演奏会が開かれた。

追い打ちをかけるように、1430開演である。太陽の陽射しとアスファルトの照り返しで、体感温度は35度を超える。うちわがないと耐えられない。

こんな日でもジャケットを着ているご年配の方々を尊敬するとともに、熱中症になるのではと心配だった。このまえのイタリア古楽の演奏会では、貧血で倒れた方がいた。

 

ブルックナー交響曲第5番原典版)。休憩なしで一気にやりきる。

昨日は読響がシャルケ版をやったらしい。初心者なので、どう違うのかはわからない。まして指揮者ごとの違いなどわからない。

指揮している姿を見て、「この動き必要あるのか」とか「なんか動きがおもしろいな」とかは思ったりする。

 

ブル5を生で聴くのは初めてで、ベートーヴェン的だなと思った。1-3楽章が第4楽章につながっていくのが、聴いていて分かった。音楽用語を使えるようになれば、もう少し明瞭に説明できるのだろうし、理解できるようになると思う。とにかく構成がしっかりしている(orわかりやすい)なという感じだった。

2楽章なんかは、ブルックナーの「宇宙or世界が拡がっていく」感じがしてとても好き。たとえば第4交響曲の第1楽章とか。ぶわっと眼前に宇宙が描かれて、惹きこまれていく感じがする。

あと京響の特徴がわかってきたかもしれない。

吹く楽器が強い。フルート、オーボエ、ホルン、ラッパ、あと縦笛系列。音を自由に操って、オーケストラを構成している。隣で聴いていた親子も、「すごかったね」と言っていた。ぼくの耳も、それほど悪くはないのかもしれない。隣のカップルも「よかったね」と言っていた。ぼくの耳は、それなりに悪いのかもしれない。真相はわからない。

 

閑話休題

どうやら京都地区限定で、23日と30日にNHK総合京響の演奏が流れるとのことhttp://www.kyoto-symphony.jp/blog/?itemid=371

具体的には

NHK総合テレビで(月)~(金)の午後6:30~7:00

に放送されている「ニュース630京いちにち」(京都府域向け)の中の

新コーナー「京都ミュージックプラザ」のための公開収録で、

5/23(火)と5/30(火)に放送の予定です☆」

楽曲は

下野竜也さんの指揮のもと、

グリーグのホルベルク組曲から第1曲「前奏曲」、

モーツァルト交響曲第40番から第1楽章、

ヴォーン=ウィリアムズのグリーンスリーヴズの主題による幻想曲、

ロッシーニの歌劇「絹のはしご」序曲などのクラシックの名曲とともに、

昨年「京響プレミアム」で交響曲第1番を初演させていただいた

くるり岸田繁さんの「宿はなし」(インストゥルメンタル)と

NHKFMくるり電波」テーマ曲「2017年の行進曲」を演奏」

 

関心の向きは、聴いてみるといいかもしれない。

三島由紀夫『美徳のよろめき』

三島由紀夫美徳のよろめき』(新潮文庫、1960年)。

 

渡部昇一『「人間らしさ」の構造』で、「変に重くなくて軽い。筆のノリが違う」と絶賛されていた小説である。

とてもよかった。お薦めだ。

 

【あらすじ】

穢れをしらない淑女が、その純真さゆえに夫以外の男と関係をもってしまう。

はじめて味わう恋。全身を預けるような快感。淑女は、女となる。

しかし夢の日々は、男に他の女の影がまとわりつくことで終わりはじめる。相手以上に好きになっていたことを認識する。数度目の中絶とともに決心する。

「わかれましょう」。

自分で言っておきながら、忘れられずに手紙を書く。しかしそれを破き捨てる。

 

淑女は「穢れた」のか。こころを味わう物語。

 

【感想】

一見、純真な女性が穢れていくのか……と思う。

けれど穢れない。穢れとはこころの問題であり、彼女のこころは穢れない。読んでいて、どこまでも透き通っていて、とてもきれい。

純真なまま恋に堕ちていき、苦悩しながらも引き際を見極めて身を引く。

想いを打ち明けた手紙を破き捨てる。このラストは最高だった。

 

ぼくもよろめきたい。

三木清『人生論ノート』

三木清『人生論ノート』(新潮文庫、1954年)。

 

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである」(「成功について」)

 

渡部昇一『「人間らしさ」の構造』を読まれた方には、当然の話であろう。成功とは外側の価値観であり、幸福とは自分だけの価値観である。

本書からは、こういった思索の跡がよく見て取れる。滋味深いエッセー集である。

「懐疑」「習慣」「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」「瞑想」「噂」「利己主義」「秩序」「感傷」「旅」は、とくにすばらしい。おすすめである。

 

人生に悩んで、自分のなかに沈みこんでいる人は、本書の「感傷について」を読んでほしい。えぐってくる。

 

【適当に抜き出し】

「孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸してじっと見詰めよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう。」

「孤独には美的な誘惑がある」

「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層心理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく、知性に属するのでなければならぬ」

「たとえば人と対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想はつねに不意の客である」

「愛とは創造であり、創造とは対象に於て自己を見出すことである」

渡部昇一『「人間らしさ」の構造』

www.youtube.com

渡部昇一『「人間らしさ」の構造』(講談社学術文庫、1977年)。

 

先日、渡部昇一さんの訃報に接した。

氏の本は『知的生活の方法』は読んだことがあるし、訳書だとフクヤマ『歴史の終わり』を読んだことがある。

それよりも蔵書の多さが有名である。膨大にあるということは知っていたが、ツイッターで流れてきた動画を見て絶句した。晩年になってまで、15万冊余りもの蔵書をしまうために図書館を建てていたとは……図書館と化した家が見られるので、見てほしい。

 

 

【ざっくり要約】

人間は自らの「心のうずき」に従って生きるべきである。それこそが生きがいであり、人間らしさになる。

無意識のうちに、外側の価値観に侵されていないだろうか。親の価値観、友人の価値観、日本社会の価値観……そういうものを内面化して、流されるままに生きてはいないか。いまやっていることは、自分がほんとうにやりたいことなのか。北方謙三ふうにいえば、「こころが震えているか」。

自分のこころと対話して、自分を再発見する必要がある。現在は外側の価値観が大きく変わり続けている時代なのだから、それに振り回され続けるだけでは疲弊する。自分のなかに価値観を取り戻す必要がある。

機能快という概念がある。備わっている機能を使うこと自体に、本来的な快感があるというものだ。男性には筋肉が多く備わり、女性には妊娠する機能がある。それらを使うことに快があるのは動物として当然である。知的な能力を使うことにも快があるだろう。快を感じる能力は、備わっている。

本来ならば、「大恍惚」の状態を目指すべきだが、それは選ばれた人間にのみ許されている。ドラッグでその域を体験するのは、適さない。

普通の人間は、「小恍惚」を数多く経験するべきだ。それは「こころのうずき」に忠実になって、自分のなかに価値観を取り戻さないことには始まらない。自分の生を充実させれば、つまらないことに拘泥することはなく、「小恍惚」を数多く体験できる精神状態になるはずである。人間らしさとは、そういう状態のことである。

 

【感想】

「さいきんの生活は、満ち足りてる?」

何人かに、こんな問いかけをした。

「満ち足りてるよ」と答える人もあれば、「ぜんぜん」と答える人もいた。もちろんぼくは満ち足りていない。

どちらの回答をした人でも、その基準は自分のなかにあるのか、もう一度確認したほうがいい。

 

いま死んでも、自分の人生に満足できますか。

 

この本について、「そもそもうまくいった人の自分語りに過ぎないのはないか」という批判は可能だ。著者からすれば「そういう批判をしてくる人は、自分のなかに軸をもっていない。かわいそうな人だ」ということになるけれど。

ただ、社会に自分をあわせることに疲弊して、なんの楽しみも感じられなくなることがある。こんなことをしたかったわけではないけれど、当面の必要があるから……なんていいわけしながら、最後には自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。

そんなときに自分の中心を見定めておくことは、とても重要なことだと思う。

 

註:2週前に読んだので、不正確な要約である。