白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

『ロンドン・デイズ』ふたたび

鴻上さんの『ロンドン・デイズ』は、演出家のロンドン留学をつづった日記である。

イギリスの演劇学校の授業風景がわかっておもしろい。また鴻上さんの目を通すと、世界はこんなふうに見えるのかと感心する。

 

演技練習の授業。

新しい女の先生が自分のことを語る。そして「順番に、いまの感情を聞かせてちょうだい」と言った。「隠さず、ありのままに感情を語ってね」。

何をいっても受けとめてくれる雰囲気を先生が醸し出していたのだろうか、学生たちはつぎつぎに普段押しこめていた感情を話しだした。

あるアメリカ出身の学生は、イギリス英語の壁にさらされて、日々がどれだけ大変かを語りだした。いつのまにか泣いている。あるイギリス出身の学生は、いまだ残る階級のせいで、ずっと抑圧されてきたと語った。「ぼくの友人たちは、就職口がなくて、酒やドラッグに溺れていった」。彼も泣いている。いろんな背景をもった学生がいるから、抱える苦悩はさまざまである。高校生のとき妊娠して降ろしたひと、母親が先週死んだひと、中学生のとき男どもにレイプされた男。みんなの前で自分の弱いところをさらすのだから、泣くのは当然だ。その感情に共感して、他の人が泣くのも自然だ。

講義の時間のなかで、各人が苦悩を話して、みんなで泣く。教室はすすり泣きでいっぱいになる。こうしたことが、何回か続く。

あるとき先生はティッシュ箱をもってきた。みんなが泣くから、拭くためにもってきたのか。いや、違う。鴻上は強烈な違和感を抱いた。先生は、ゆがんだ欲望を、ぼくらで実現させているのではないか。「生徒が、自分の言葉によって、泣き、救われる快感」。目の前の人間を操縦して、悦に浸っているのではないか。それがティッシュ箱をあらかじめ準備したことに表れている。

それからも毎回、泣くだけで講義が終わることがよくあった。鴻上は、これでいいのだろうかと疑問に感じる。

そんなとき学生のひとりが「毎回、正直に弱さをさらけ出すだけでいいのか」と問題提起をした。泣く準備をしていた学生は混乱していたけれど、学生のなかには同じ違和感をもった者たちが複数いた。

鴻上は、彼らに賛成して言った。「人生には、ポジティブ・サイドとネガティブ・サイドがあって、ネガティブ・サイドを見れば、悲しいこともつらいこともたくさんあるけど、僕はあえて、ポジティブ・サイドを見たいんです」「だから、毎回、ネガティブ・サイドを見たいとは思わないんです」。

 

このエピソードを、鴻上はこう振り返る。

「自分の弱さだけを見つめているような気が僕はしていた。そして、自分の弱さを、ものすごく大切にしているように感じていた。それじゃあ、プロの俳優にはなれないぞ、と僕は思った」156-169頁

 

俳優は無防備になれる必要がある。自分のなかに触れてはいけない感情を作ったら、演じることはできないからだ。周囲に張っている強固なバリアを自覚して、いちど取り払ってみる体験が必要なことは間違いない。直面したくはない感情(的体験)に向きあって、それを言語化することは授業の目的として合理的となる。

でも、無防備な弱い自分を守ろうと思ったり、みんなで傷をなめあったりしているばかりでは、つぎの段階に進めない。弱い自分もいることを受けとめて、生きぬくために強くあろうと覚悟することが重要なのだ。元気をとりもどしたら、成長しなければいけない。

強がりかもしれない。ぜんぜん克服していないかもしれないけれど、「もう大丈夫なんだ」とウソをつくこと。ぼくは弱いだけの人間ではないんだ、そういうウソをみんなの前で実現して、ひとりの夜に泣けばいい。ほんとうに大事な人にだけ打ち明ければいい。

そういう人間から薫ってくる魅力がある。