白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

平野神社、北野天満宮天神市


f:id:rjikumaru:20170527133503j:image

秋にも咲く桜が植えてある。

 

平野神社

北野天満宮のすぐそばにある。

境内には、桜の木がたくさん植えられている。桜の時期には、桜の花で埋め尽くされるのだろう。桜の花びらが形づくるアーチの真ん中を歩き抜ける。

想像するだけで美しい。

 

毎月25日には、北野天満宮で天神市が開かれる。骨董市でもあり、お祭りでもあり、という感じの雰囲気だった。

着物を売っている店が多かったのが印象的だった。ひとつ1000円くらいの値づけが標準。帯や風呂敷、櫛なんかもあわせて売っている。扇子も多かった。手作りの陶器も扱う店もあった。

いうまでもなく、玉石混交なので目利きが肝心である。

 

ネットの情報だと1700まで開かれているという話だけれど、いかんせん個人でやっているのが大半のため、1500過ぎから片付けはじめる店が多い。注意が必要だ。1600ころには、ほとんどの店が片づけを始めている。終えている店も少なくない。できるだけ早めに行きたい。たくさんの店が通りに並び、人出も多い。

もっとも、当然ながら店じまいのギリギリにいけば、価格交渉はしやすい。それを狙っていくのもオツだ。

『ハリー・ポッターと死の秘宝』

ぼくは軽めのポッタリアンである。
本は10周以上しているし、映画も3回は通しで見ている。映画で省略された箇所も、頭のなかで映像化されているから、地上波放送ではしょられた箇所がわからない。
そのくらいのポッタリアンだ。

ただ、何回読んでも、原作第7巻で、腑に落ちない箇所があった。

ひとつめは、スネイプ先生の最後の言葉look at meの解釈。
自分の記憶をハリーに託すので、「記憶のなかの、ほんとうの自分を見てくれ」という意味だと思っていた。しかし、どことなく場面にあわないなぁと思っていた。
ふたつめは、ハリーがヴォルデモートの死の呪文を くらってなお、生き残る場面。仮にも死の呪文を受けておきながら、「ハリーのなかのヴォルデモートの一部」だけに効果が及ぶのは都合がよすぎないか、と思っていた。

今日、映画をみて、これらの疑問が解消された。簡単なことだった。過去のメーキング映像を見るかぎり、映画化するさいにはローリングさんとの検討を経ている。本作の映画版では、解釈が固定化されるように表現されていた。
いままで、この描写に気づかなかった。ポッタリアンとしてなんという失態。

ひとつめ。「私を見て」というのは、ハリーに向けた言葉ではなかった。リリーに向かって発した言葉だったのである。
目の前のリリーに「ぼくのことを見つめてくれ」と言ったのだ。正しくは、リリーの目をしたハリーではあるけれど、そんなことは関係ない。死ぬ直前、息も絶え絶えのスネイプにとって、ただ目だけが重要だった。世界のすべてだった。スネイプは最後の瞬間に、リリーとふたりだけの世界にいたのだ。
「きみの息子を守ってきたよ。最後までは見届けられないけれど、できるかぎりのことはした。許してくれるかい。許してくれなくてもいい。いまだけはぼくのことを見ていてくれ」

ふたつめはとても単純だった。
杖の忠誠の話だ。ニワトコの杖は、ハリーに忠誠を誓っている。ハリーは杖をもたずにヴォルデモートのもとに行くから、杖同士での相殺ビームは発生しない。その状態で死の呪文を受けると、呪文はハリーに当たるものの、正規の効果はハリーに及ばない。「たまたま」いちばん近いヴォルデモートの一部に当たる。という寸法だ。
(ニワトコの杖をもった)ヴォルデモートが死の呪文をハリーに使うこと。そのときハリーは、蘇りの石に触れて死を受けいれ、無防備にヴォルデモートのもとへ行くこと。これらが必要だった。きわめて論理的に準備されていた。さすがローリングさん。


ふたつめの話は、原作を読んだときには了解できていた気がする。忘れていただけの可能性が強い。問題なのはひとつめの話だ。より根深い問題が露呈する。
言葉に込められた意味は、その他の手段で限定されないと、正しい解釈にいたらない。
正しい解釈などないといえばそれまでだが、作者の意図は上のようであった。この意図は、映画で補足説明されなくても、恋愛をしたことがあるひとならすぐに気がつくだろう。原作を読んだ時点でも、想像力と経験の差によって、読みの正確性が変わってくるのだ。
しかも4回以上は映画を見ている。いままで、これだけはっきりと描写されていた極限のシーンについて、誤解を正せなかったのだ。
なんということだろう。

さいきん、いろんな経験をするようにしているのは、こういう間違いをできるだけなくすためである。ぼくは何も知らない。

天授庵

 

 

f:id:rjikumaru:20170525230702j:plain

スマホのデータをPCに移行したので、ぼちぼち京都観光をまとめていく。

 

天授庵。南禅寺のすぐ横にある。

拝観料は500円。山門に登って、ここの庭園を見ないのは損である。山門に登るよりも優先順位は高い。

 

ここは枯山水が有名だけれど(そうだ京都行こうの写真にもなってる)、枯山水はそれほどでもないと思う。

枯山水を抜けたところからが本番である。

苔庭が拡がるのだ。小さな門を奥にして、もみじが立体感をだす。下を覆う苔が雰囲気を醸していて、石畳が苔を分けて奥にいざなう。

この光景を建物の縁側で横になって眺めることができる。何時間でもいられる。ずっと読書していた。ふと見上げると最高な光景が広がり、耳をすますと水音が聞こえる。

 

門をくぐると、池がある。糸のような滝から水がゆっくり流れ込んでいて、水面は対岸の木々を反射するくらい穏やかである。

 

こういう庭園を探していた。

 

f:id:rjikumaru:20170525231047j:plain

苔が屋根を覆っている。よきかな。

f:id:rjikumaru:20170525231006j:plain

f:id:rjikumaru:20170525230748j:plain

セネカ『人生の短さについて』

セネカ(中澤務訳)『人生の短さについて他2篇』(光文社古典新訳文庫、2017年)。

 

とりあえず表題作だけ読んだ。

多くの人の人生は、他人のために浪費されるのみである。そうした人生は他人を中心に回るから、多忙を極め、人生は短い。

いっぽうで自分の人生を生きている人にとっては、人生は長く充実している。人生を、自分に取り戻すことが大事である。

 

ある研究者の先輩と話したとき、「学生のうちは自分の関心と社会の関心をすり合わせなくていいんだよね。ぜんぜん重ならなくていいの。好きにやっていい。それが学生の特権。でも社会に出るときには、自分と社会の関心が重なり合う場所を探さないといけない。そうじゃないとやっていけない」といっていた。

そのときも、概念上は理解できた。でも最近は、身に染みて理解できる。どこかで重なるところを見つけ出さなければ、自分のこころをすり減らす一方であり、こころの弾力が消え去ってしまう。

 

なにごとも「自分を知る」という問題に行き着く。世界で一番長く過ごしてきた人でありながら、外からは観察できない他人。もっとも身近な他人、自分。

『「自分らしさ」の構造』では、その見つけかたについても触れていたなぁと。