適切な感情の構え
「正しい聴き方を考えるんじゃなくて、とにかくクラシックに触れてみろ」みたいな話を書いてはいるけれど、じっさいには適切な聴く姿勢=聴く型は存在する。岡田暁生さんも指摘しているように、クラシックにはクラシックの聴き方がある。
これは私が確信するところなのであるが、どんな音楽にも必ず、「適切な聴き方」というものがある。聴き手のの適切な感情の構え、適切な姿勢、適切な上演の場……どんなに素晴らしい音楽も、場違いなところで聴けば台無しだ……
「ある音楽をいくら聴いてもチンプンカンプンだ」という場合、ほとんど間違いなくその原因は、この「場違い」にあると、断言できる。
西洋音楽といえども、それはあくまで深く「場」に根差した音楽、つまり徹頭徹尾「民族音楽」であると確信している。たとえそれが「世界最強の民族音楽」であるとしても。(『西洋音楽史』まえがき)
まっとうな指摘だと思う。クラシックには何かと普遍性がつきまとってくるけれど、「民族音楽」なのだ。もちろん岡田さんは、西洋の民族音楽だから普遍性がないと言いたいのではなくて、「場」の重要性を強調したい。「場」というのは、たんなる場所ではなくて、場所にかんする知識だけでもなくて、僕に言わせれば「身体性に根差した文脈」である。「適切な感情の構え、適切な姿勢、適切な上演の場」の言葉で伝えたいのは、身体性が音楽体験を左右するという事実である。
たとえば、同じベートーヴェンの第九を聴くのでも、満員電車で押しつぶされながらipodで聴くのと、音響を整えた書斎で椅子に背を預けて聴くのと、クラシックホールで生の演奏を聴くのとでは、音楽の印象はまったく異なってくる。それはipodと生音による音質の違いだけではない。満員電車で「こっちも体勢がつらいんだから押すなよ」と思いながら聴くと、ぜったいに第3楽章の深みに身を任せられない。音響を整えた書斎でも、クラシックホールで聴くような音の3次元性を捉えられない。
人間は身体と切り離せないから、こういう違いが生まれる。人間は耳だけにはなれないのだ。
もっと言うと、クラシックホールで聴くことが最善なわけでもない。人間は耳だけでもないけれど、身体だけでもないからだ。感情が重要になってくる。
第九の第3楽章を聴くとき、「適切な感情の構え」が必要になる。1,2,4楽章では、音楽自体の勢いや喜びに身を任せていれば、それが正しい音楽を聴く姿勢になる。大筋では、という限定はつくけれど。
しかし、静かな第3楽章は異なる。勢いや喜びを軸にして聴くと、まったく楽しめない。むしろ1,2,4に挟まれているから、つまらなく感じる。「この楽章に意味があるのか? さっさと第4楽章に飛んでくれよ」と思ってしまう。劇的な音の演出がないからである。
第3楽章は、人生を投影する形で聴くと深みがわかってくる。心のひだをくすぐられるような感覚になる。一見すればただの停滞だけれど、静かな音の構成の内側には心のうねりが込められている。これを聴きとろうとするのが、「適切な感情の構え」なのだ。
聴く側は、適切な感情の構えを自在に操れなくてはいけない。その場その場に応じて聴き方を変える努力をしなければいけない。いやまあ、「しなくてはいけない」とまでは言わないけれど、したほうが音楽体験は豊かになるのです。圧倒的に。
(続きます)