新川直司『四月は君の嘘』
とても好きな漫画がある。アニメにもなった。どちらもすばらしい。
新川直司『四月は君の嘘』(講談社、2011-2015年。全11巻完結済み)である。
繰り返し繰り返し、みんなにお薦めしているのだけれど、だれも読んだり見たりしてくれた形跡がない。何回でも言う。これは傑作なので、読んだほうがいい。
話の大筋だけをまとめる。
こころに大きな傷をおって自己否定を繰り返していたピアニストの少年が、ヴァイオリニストの少女との出会いによって傷に正面から立ち向かわざるをえない状況に追い込まれ、その傷を自分の特徴として自己受容できるようになる。
少年のこころの回復を描いた物語である。
このように表の物語としては少年が主人公である。ただしその裏には、少女の物語があった。「君の嘘」で、物語ははじまった。
この構造が、第1巻で強く示唆される場面がある。
主人公は少女にコンクールの伴奏を頼まれるも、コンクールの直前で逃げてしまう。
主人公は、ピアニストなのに音が聴こえない。満足な演奏ができるわけもない。少女に迷惑をかけてしまう。それならぼくは、伴奏なんかしないほうがいい。
そうやって、自分のなかに閉じこもっていた。いままでと同じように。
そこに、少女が飛び込んでくる場面だ。
――僕はピアノが弾けないんだ
――だから何だっていうの
君は弾けないんじゃない。弾かないんだ
“ピアノの音が聴こえない”。それを言い訳に、逃げ込んでいるだけじゃない
――僕は……僕は怖いんだ
――私がいるじゃん
君が――音が聴こえないのも、ピアノを弾いてないのも知ってる。全部知ってる
でも君がいいの
君の言う通り、満足のいく演奏はできないかもしれない
でも弾くの
弾ける機会と聴いてくれる人がいるなら、私は全力で弾く
それが私のあるべき理由。私は演奏家だもの、君と同じ
だからお願いします。私の伴奏をしてください
私をちょっぴり 支えてください
くじけそうになる私を――支えてください
少年を助けにきたはずの少女が、逆に、「私を――支えてください」と泣きながら懇願する。
自由奔放で、わがままで、ズカズカ他人の領域に踏み込んでくる少女は、その裏で、たったひとりの支えを頼みにしていた。その人の前でだけ、自分の弱いところをさらすことができた。
人間は、支えあって、頼りあって生きていく。
こころが傷ついたとき、疲れたとき、すこし休むのにピッタリの漫画である。読み終えたときには、ほんのすこしだけ、元気が出ると思う
けっしてぼくがオタクだからおすすめしているのではない。男だからおすすめしているのでもない。
この漫画には、人生が描かれているから、おすすめしている。
漫画を再現できるわけもない。ぜひ読んでほしい。
追記:急いで付け加えると、少年のこころは自己否定→自己受容の軸に重ねて、孤独→依存→自律の軸もある(第二部)。ネタバレになるので触れない。
孤独について。『化物語』と『エヴァ』
孤独と愛についてある人と少し話した。そのなかで、明示的ではなかったけれど、重大な論点が隠されていたように思った。
瞬発力とコミュニケーション力が皆無なので、ぼくは話している最中に違和感に形を与えることができない。残った違和感は解消されずに、頭のなかで重要なフレーズとともに反芻される。数日たったころ、「あ、そういうことか」という瞬間が訪れる。
重大な論点は、以下の点である。
「孤独だから、人間は頼りあうのか」。それとも「孤独でないから、人間は頼りあうのか」。
少し違うところから攻めてみたい。
上の命題で、ぼくは「助けあう」という言葉を使わなかった。西尾維新さんの物語シリーズで、忍野メメというおっさんがいる。彼は「人が人を助けることはできない。人はひとりで勝手に助かるだけさ」というキメ台詞をもっている。この人間理解は、ぼくのものと近いと思う。福永武雄とも近いと思う。
「助かる」という状況はその人固有の内面的なものであって、他人が土足で踏み込んで「助けてあげた」ということはありえない。何かを抱えている人相手にできるのは、「助かる」という状況を、外からの働きかけで準備してあげることだけなのだ。その準備は(たぶんに)決定的なものではあるけれど、相手の内的な変化につながらなければ意味がない。
内的な変化は、その人自身のものであるから、そこには踏み込まない。きわめて現実的で、できることとできないこと、すべきこととすべきでないことを認識した世界観である。
これを冷たいと捉えることも可能だ。
シリーズのなかで阿良々木君は、「助けてあげたい」という正義感・使命感をもって、さまざまな登場人物の人生にかかわっていく。そして実際に助けていく。八九寺真宵に「あなたのことが嫌いです。かかわらないでください」と拒絶されても、「あんなに困っているのに、助けようと話しかけてきた相手を拒絶しなければいけないなんて、放ってはおけない」という。共感能力が高いのである。
それほど違いはないのではないかと思う。自分と他人をへだてるものを、諦観とともに受け入れるか。へだたっているけれど、それでも! と乗り越えようとするか。その違いである。
こう表現すると、意外と大きいかもしれない。
でも、物語シリーズを読んだかたはわかるだろう。忍野は隔絶を基本に置くけれど、実際は助けているのだ。相手の人生に根本からかかわっている。「助かる」のは相手個人の問題だけれど、相手の問題だからといって何もしなければ見て見ぬふりである。忍野は見て見ぬふりはしない。助けようとしている。
ふたりの違いは、最初のアプローチだけである。忍野は「相手から頼られた」場合にのみ、かかわっていく。阿良々木君は「自分から積極的に」かかわっていく。
忍野は「変わりたい・助かりたい」と相手が思ってはじめて、手を貸す。相手の意思がすべてだと理解しているからだ。阿良々木君は「変わりたいと思っているはずだ」と認識した時点で無理やりに手を貸す。変わりたいと思っても、簡単には行動に移せないと思っているからだ。
冒頭の問いに戻ろう。
忍野メメ風の世界観ならば、「人間は孤独である。孤独だからこそ、頼りあう」ということになる。
阿良々木風の世界観ならば、「人間は孤独であるかもしれないが、同時につながっている。つながっているからこそ、頼りあえる」ということになる。
ここまで書いてきて、「孤独」をどう定義するのか、何も言っていないではないかといわれるかもしれない。
ぼくのなかで、孤独はわりと単純な事実認識である。
漫画版の『エヴァンゲリオン』が視覚的に描き出している。個人のATフィールドがあるのは、孤独な状態である。そして、個人のATフィールドが溶けだした無限抱擁の状態は、自他同一の世界として孤独ではない。
無限抱擁の状態は、恋人同士であれば、一瞬だけ達成しうるかもしれない。しかし福永武雄は、それすらも拒絶する。ふたりがひとつになった瞬間にこそ、逆説的に、もっとも強く孤独を感じるのだ。
無限抱擁の達成は、精神が自他を認識し始めた瞬間から、ありえない。
人間は孤独なのだ。
稲垣栄洋『弱者の戦略』
稲垣栄洋『弱者の戦略』(新潮選書、2014年)。
一時期、民間の就活をしていた時期があった。某出版社の説明会ESに「最近読んだおもしろい本を推薦してください」という問いがあった。フォルダを探していたら、出てきたので挙げておく。
体の大きなウシガエルのオスは、大きな声で鳴けるから、声が遠くまで響いてメスと結ばれやすい。だからその遺伝子が多数を占めて、ウシガエルは大きな個体しかいない。単純な論理だ。
しかし自然界だと小さなオスもたくさん存在する。矛盾だ。すなわちこれは、体が大きいものが「強い」個体であるということの裏で、体が小さいという「弱い」遺伝子もたくさん生き残っていることを示している。
そうした弱い個体・種は、どうやって生き残ってきたのか。これこそが「弱者の戦略」である。筆者によると「すべての生き物は勝者である」。考えてみれば当然だ。永い生存競争に生き残ってきたのだから。
本書は成功者としての弱者に焦点をあて、その戦略をさまざまな角度から明らかにしていく。擬態する植物? 冬眠ではなくて夏眠? 短い寿命の合理性? 食べられることが成功? などなど、普段は死角となっている観点から生物界を解き明かした良著である。
岩清水八幡宮
岩清水八幡宮
桜が咲いている時期に行った。
京都にきてからずっと雨が降っていて、たまの休みが運よく晴れた日だった。とりあえず鴨川を下ろう、と思って気持ちよく漕ぎ出したら興が乗ってそのまま1時間強。緩い向かい風のなかを、サイクリングの列の後ろにくっついて漕いだ。
鴨川沿いはまだ開発が終わっておらず、右から左、左から右へと走る道を変える必要があった。4回くらいかな。実際のところ京都市内の大通りを使うほうが早く行けた。だけれど、菜の花畑があったり、川のせせらぎが聞けたり、サックス吹いている人がいたり、川沿いはいい。途中からサイクリングロードに連結するので、そこからは早い。
岩清水八幡宮は、小山の上にある。石段がそれなりに長く続く。ロープウェイがあるほどだ。サンダルだったので、すこし痛い。
本殿のまえで居合道の奉納演武が行われていたことは、すでにブログで書いた。居合をはじめるきっかけとなった。感謝。
谷崎純一郎の文学碑があり、その横の展望台からは眼下を見下ろせる。緑が気持ちいい。