誤解していた感謝
ある選手がオリンピックの表彰台に登る。左胸についている日の丸ワッペンを握りしめながら、国家が流れるのを聞く。首から金メダルがぶら下がっている。手にもって上げたり下げたり、歯で噛んだりする。
授与式が終わると、定例のインタビューが始まる。
――いまのお気持ちはいかがですか
――みなさんに感謝したいです。まず両親や兄妹にありがとうと言いたい。ここまでやってこれたのも、家族の支えあってのことです。そして友人に……テレビを見て応援してくれていた日本のみなさんにも……
こういうシーンを見るとシラケてしまうのだ。
うそっぱちだ。マイクを向けられると、口をそろえて感謝感謝感謝。それしか言わない。テレビに映るし、好感度の問題はスポンサー関係にもかかわってくる。表だけは、そうやって取り繕うんだろ。
本心は別にあるんだろ。「このメダルを取れたのは、努力した自分の力です。このメダルのために、いろいろなものを犠牲にしてきました。しかし後悔はしていません。あとほんのちょっぴり、みなさんに感謝しています」。そう思っているはずなのに、誰もそう言わない。
うそだらけだ。そう思って、テレビを消していた。
どうしようもないバカだった。
いまならはっきり言える。むかしのぼくは、間違っていた。
勝つためには努力が必要だ。その努力は、結局は自分自身で引き受けなければいけない。仲間もいるけれど、強くなるためには孤独のなかで自分と対話して成長していくことが不可欠だ。自分自身の孤独な努力。これが必要なことは間違いない。
ふつうのレベルなら、自分だけで孤独を引き受けて勝つこともできるかもしれない。自分の努力だけだと言うこともできるだろう。しかしオリンピックのような世界は別世界である。血のにじむような練習、勝ち続けないといけない重圧、周囲の無邪気な期待。想像できないほど、精神に負荷がかかる。そうして一流のなかのトップを目指す過程で、どうしようもなく自分の心がさらけ出される。どん底を経験する。自分の弱さと対面することになる。
人間は弱いのだ。
どん底では、競技を続ける気力が残っているのかという問題がつきまとう。頑張り続けて、それでもどこかで挫折して、もうこんな歳になってしまった。これしかないけれど、これ以外もできない。もう疲れた。やめちゃいたい。もう耐えられない。逃げたい。
こうなってしまったとき、人は、自分だけでは立ち直れない。
支えてくれる誰かが決定的に重要だ。支えてくれる人のことを認識して、その人の想いも背負うことで、「ひとりじゃない。やらなければ」と覚悟する。こうしてどん底から再起する。努力しなければと思う。気力が戻ってくる。
これを乗り越えると気づく。自分が努力できたのは、支えてくれる人がいてのことだ。支えてくれた人を支えていた人もいたはずだ。みんなつながっている。メダルを取れたのは、そうしたつながりの結果でしかない。
ぼくは間違っていた。
みんな感謝に行きつくのだ。ありふれた言葉なのは、あたりまえだ。