岡本太郎『自分の中に毒を持て』
岡本太郎『自分の中に毒を持て』(青春文庫、1993年)
岡本さんがお坊さんの前で講演を頼まれた。
前にしゃべった講師が「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という言葉を使った。有名な言葉だ。一種真理をついている。しかし岡本さんは、ウソだと思った。最初に言った方は偉い。けれど、今こうして話すことに何の意味があるのか。道で会うのは人間だけである。仏には会わない。こんな言葉に何の意味もないじゃないか。ただ偉い人の言葉をありがたがって、あぐらをかいているだけだ。
講演の冒頭、何千人といる僧侶に向かって、岡本さんは「道を歩いていて、ほんとうに仏に出逢えると思いますか」と問いかけた。当然、何も反応はない。
彼は続ける。「逢いっこない。逢えるはずがないんです。では、何に逢うと思いますか」。反応はない。会場はシンと静まりかえっている。彼は言葉をぶつけた。
「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」
会場全体がどよめいた。やがて、猛烈な拍手がわいた。
このエピソードには、岡本太郎の信念があらわれている。彼はこう説明する。
「人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。その時、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである」
「己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない」(33頁)
芸術は爆発だ、との言葉を残した男の生きかたである。
誰でも「芸術は爆発だ」という言葉を聞いたことがある。
岸本さんの『ナルト』を知っているひとは、起爆粘土を爆発させるキャラクターを想起するかもしれない。爆発物が中心にあって、ドカンと音がして、周囲をまきこんではじけとぶ。巻きこまれた木や人や建物は、粉々になる。そのキャラクターは、爆発を遠くから眺めてうっとりする。まるで花火を見ているかのように「芸術は爆発だ」と言う。爆発した一瞬を切り取って、うつくしいと思う。それが芸術なのだと思った。
しかし、彼の意図したことは違った。
「私の言う「爆発」はまったく違う。音もしない。物も飛び散らない。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべきだ。いのちの本来のあり方だ」(191頁)。
彼は、自分が完全にひらいている状態を爆発と言っているのだ。しかしそれはたんに、「ひらいている」という静的なイメージでは足りない。爆発という動的なイメージなのである。自分の中心からわきあがってくるものを、そのまま外に向かって放出する。それが爆発なのである。
勘のいいひとは疑問に思うだろう。「この爆発は生きかたそのものではないか」と。「芸術は爆発である」の芸術と矛盾しないか。
そのとおりである。彼にとって、芸術とは生きかたそのものなのだ。アートの意味ではない。
「ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生きかたこそが芸術なのだということを強調したい」(190頁)
彼にとって、芸術とは自分をひらいて強烈に生きることである。こころのありかたが問題だったのだ。そうした生きかたをしているひとを、岡本さんは「ふくらんでいる」と表現する。歓喜にみちた生きかただ。
自分をひらいて強烈に生きるとき、ひとは生きがいを感じる。生の実感をえることができる。それを阻むものは何か。
「自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ」
自分を大事にしようとする心が、無意識に阻んでしまうのだ。彼は、自分を大事にしすぎるな! と何度もいう。絶望的な危険=死に直面することで、人間の芯が震えるのだ。その危険に自分の身を置いてみろ。その覚悟がなければ、ほんとうに生きていると言えないのではないか。自分を大事にしすぎるな。
「いま、現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうか、ということだ。ほんとうに生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかどうか」
「一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り」「本質的に生きているとはいえない」216頁
「強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいにかけようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう
そのとき「死」が現前するのだ。惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。しかし空しい。死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる」(217頁)
自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ
本棚に置いておきたい一冊だ。