亡き王女のためのパヴァーヌ
冬。
寒さが身体にしみて、心まで冷えていく。
その寒さは、逆説的に、心の底の暖かさに気づかせてくれる。
その暖かさは、人が与えてくれたものだ。
誰かが自分を愛してくれていたんじゃないか。誰かがいまも愛してくれているんじゃないか。ひとりぼっちじゃないかもしれない。
与えられた愛に気づいて、自分で抱きしめてこそ、暖かみを帯びる。人からきて、自分のなかにしまう。確かなものにする。
そうして今度は、自分が与える側になる。だって、自分が渇望していたことを知っているから。与えられると、心が暖まることを知っているから。
隣の人も、同じように感じるだろうと思うから。
そうやって世界は回ってきた。
はるか昔から。
ラヴェルが「亡き王女のためのパヴァーヌ」を書いたのは、24才だったらしい。天才だ。パヴァーヌは、とても静かな宮廷舞曲を意味する。
昔のスペイン王女をモチーフにした、と言われている。郷愁をさそう作品である、とも。スペイン出身の母にささげた曲では? という解釈もある。
違う、と直観する。
そんな遠い人を描いたメロディではない。もっと近いひとを描いたメロディだ。近いひとだけれど、いまは近くにいないひとだ。このピアノ曲には、愛が詰まっている。どうしようもなく愛していたけれど、いまは、もう会うことはないひとを描いている。そのひとのためだけに紡ぎだした音である。古の王女ではなく、会おうと思えば会える母親でもなく、どこか知らない土地を想って書いたのでもない。もう会えないひとのために、紡いだメロディだ。
この気もちは哀愁という。愛しているから、ひとりだと哀しくなる。ふたりだけが知っていることを、思いだすのは自分だけだというさみしさである。
だから、発表して大ヒットすると不機嫌になった。たったひとりだけに通じればよいのに、その他大勢にも届いてしまう。自分の想いが大衆化してしまう。
売れたのは、同じような想いを、皆が知っているということでもある。だいたいのところ人間は、好きになった想いを自分の胸に閉じこめながら生きている。押しこめた心の隙間から、そっと沁み込んでくる曲だ。誰しも、古い時代を思い返す。
亡き王女とは、昔好きで、いまも淡く愛しているけれど、もう絶対に会うことはない相手を指しているとしか思えない。時は過ぎて、自分も相手も変わった。つまり、あのときの両者は死んでいる。あのときのまま、会うことはないのだ。もしかすると、物理的に亡くなっているかもしれない。
そういうひとと、パヴァーヌを踊る。周りのひとはまったく気づかない。自分たちだけにわかる合図や仕草をしながら、傍目にはただ静かに踊っているように見せる。自分たちだけの曲なのだ。
ラヴェルは、曲に乗せて、誰に想いを伝えようとしたのか。それがわからないからこそ、謎として生きつづける。