漢詩と『君嘘』
漢詩を語ることで、『君嘘』に迫る。
李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」。漢文の教科書で読んだ。
七言絶句である。縦書きのものを、横書きにした。
故人西辞黄鶴楼
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
惟見長江天際流
高校生のとき、この詩を読んで、まったくわからなかった。
書かれてあることはわかる。訪ねてきた朋友が去っていく様子を、建物から眺めるのだ。
どこがいいんだろう、と疑問に思った。先生が「描かれる寂寥感がね、絶妙なんですよ」とか言っても、古代中国における左遷の意味を知っていれば、そういう読みもできるでしょうけどね、後知恵じゃないですかと醒めた目線で見ていた。
いまは、しっかり読み取れる。
描かれているのは、余白だ。読み取れなかったのは、人生経験が足りないせいだ。こんなにも寂莫とした空気感が表現されている。直接書かずに余白を作るから、心にぽっかり空いた穴を想像する。どこか疲れて、どこか懐かしい、充実していた時間が過ぎ去ってしまったのだな、と実感するむなしさ。
余白というのは、何も書かれていないことを意味しない。
「煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
惟見長江天際流」
に見られるように、視線を描きだすことで、積極的に余白を作っていく。その余白に、ぼくらは感情を入れ込む。詩を読むときの醍醐味のひとつだ。
『四月は君の嘘』の特徴のひとつは、余白を多用することである。その余白は、詩的なことばと風景描写が作り出す。
「いてもいなくても同じなら 隣にいるよ そばにいるよ」
「ダメかどうかは女の子が教えてくれるさ」
「星は きみの頭上に輝くよ」
「ほんとうのきみは どう弾きたい?」
「ねえ先生 私たちみんな さよならのキスをしてくれる人が いるんです」
ぼくらはそれを読んで、ことばの奥に広がりを感じる。その広がりが余韻を生んで、風景描写の時間を豊かにする。風景を見ながら、心に投げ込まれたことばを味わう。
この描きかたはすばらしい。読者は感情を入れ込むから、物語への没入感を高めることができる。感情を入れ込むとき、読者の読むスピードが落ちるから、物語展開の時間も操作できる。題材やストーリー構成もあいまって、歴代トップを争うくらいには好きな漫画である。完成度が高い。
でも、詩的な雰囲気を効果的に使うから、読み手の力量が試される。ことばを味わうとともに、絵からも読み取らないといけない。ただおもしろい漫画というだけではなくて、しっかり読み取ろうとしたら、読めない自分を受け入れるしかない。わかりたいから、何回も読む。
――私の人生だもの。このまま諦めてたら、私がかわいそう。
アニメを見返すと、かをちゃんの言葉が胸に迫ってきた。
かをちゃんは、有馬君を救いだしたあと、自暴自棄になって生きることをあきらめた。
しかし有馬君の一生懸命な姿を見て、もういちどバイオリンを弾きたいという、生きることへの未練が生まれた。将来の自分のために、難しい手術を受ける決意をする。
――諦めてたら、私がかわいそう
ぼくは、この気もちが痛いほどわかる。自分のことを諦めてしまったら、父や母や友人がかわいそうなんじゃない。
自分自身がかわいそうなのだ。自分の可能性が、そこで閉じてしまうのがかわいそうなんだ。たとえ確率は低くても、その可能性が開くほうへ脚を踏みだしたい。自分が自分のことを信じてあげないと、誰が信じてあげるっていうんだ。
余白に感情を入れて読むのは難しい。だから楽しい。