嫌いなひと
嫌いなものを言うのは、怪しげな爽快感があってクセになる。
ぼくは、葬式で「とてもいい人だったよね」とだけ言う人が嫌いだ。
故人と一緒に過ごせば、良いところよりも、悪いところや不器用なところのほうが多く見えてくるはずなのに、いいところしか言わない。もし良いところしか見えていないのだったら、人間どうしとして関わっていない。浅い付き合いだ。相手のことを何も理解していない。
もしちゃんと付き合っているなら、「いい人だった。けど、悪いところも不器用なところもあったよな。そういうの含めてその人だよね」みたいに言うはずである。完全にいい人はいない。完全に悪い人もいないようにね。
そういう人は、「いい人だった」と言って故人を惜しむ様子を見せながら、故人の一側面だけを惜しんでいるのである。ほかの面は見ていなかったのですか。あなたは「いい人だった」と言うことで、思い出に片をつけてさっさと次に行こうとしているんじゃありませんか。そう言いたくなる。
「いい人だった」のあとが、一番大事なのだ。
それぞれの思い出を語ることで、故人のさまざまな側面を浮かび上がらせていく。いいところばかりじゃないのはあたりまえだ。むしろ普段気をつけて隠された姿を、どれだけ見ようとしてきたかが重要である。
不器用でダメなところこそ人間の味なのだ。いいところなんて、誰にでも見えるから価値がない。いいところは誰でも同じ感じになるから価値がない。
その人とどれだけ深く付き合ったかというのは、どれだけ不器用でダメなところを知っているかということである。
(註:悪い(とされる)人の葬式に来るのはいいところを知っているやつだけ、という前提で書きました。もちろん逆もあてはまります)