立つ――バランスをとるとは、どういう意味か
あなたが、友だちと電車に乗っていたとする。
立ち続けるゲームをしよう、と友だちに提案する。吊革などにつかまってはいけないし、足を一歩でも動かしてもいけないというルールだ。負けたほうがジュースをおごる賭けも追加する。できれば勝ちたい。
勝利条件は明確である。目の前の相手より一秒でも長く、揺れに負けずにその場で立ちつづけること。つまり、バランスを崩さないこと。
あなたは足の位置と向きを決めて、少し膝を曲げて重心をさげるだろう。あとは、なんとか揺れに対応するだけ……運の側面も大きいから、負けてもしょうがないかな。
こんなところだろうか。
しかしぼくなら、もう一段考える。
――バランスを崩すときは、どういうときだろうか。
そんなふうに自分に問いかける。
電車がガコンと揺れたとき、電車が傾いたとき……そういう回答ではない。だって、揺れにあわせて身体を動かすはずだ。そうして身体のバランスを保とうとする。バランスを保てるときもあれば、保てないときもある。電車という外的な要素は、あたりまえであるがゆえに説明力をもたないのだ。身体がバランスをとれる時ととれない時の境目を知りたい。
ここまで考えると、バランスを保っている状態とは何なのか、という疑問もわいてくる。 バランスとは、何なのだろうか。
答えは実にシンプルである。
バランスが崩れるのは、「重心から鉛直に下ろした点が、両足で作られる四角形の外側にある」ときである。この状態だと、あなたの身体はバランスがとれなくなって一歩踏みだすことになる。賭けに負けてしまう。
逆に言うと、バランスがとれている状態とは、「重心から鉛直に下ろした点が、両足で作られる四角形の内側にある」状態である。この状態を保てれば、あなたは賭けに勝つ。
足のゆびはどうなんだ、という疑問があるかもしれない。個人の筋肉に左右されるけれど、親指は重心が乗っても大丈夫である。小指にいくほど重みに耐えきれなくなってくるから、「足の外側」と定義してよい(だからこそ、相手の重心を小指に移すことが、古武道における崩しになる)
もちろん電車の揺れや傾きがあるから、重心鉛直点が両足の外側にずれ込むことは避けられない。つまりバランスが崩れてしまう。そのとき、速やかに筋肉を使って重心鉛直点を内側に戻すことができれば、バランスを回復できる。バランスをとるとは、重心鉛直点を筋肉で操作することだ。
片足立ちの場合には、重心鉛直点が接地足の内側に収まっていることがバランスの条件である。
歩いているときは両足で次々に接地していくから、基本的には、ここまでの議論をn回繰り返すだけ。バランスの崩れと重みの操作は異なるけど、細かい説明は抜きで。
走っているときは、違う理屈になる。重心そのものを推進力に変えているからだ。陸上短距離のスタートだと、重心鉛直点を両足前方に置くことで爆発的な加速度を生みだす。崩れそうな身体は全身の筋肉で支える。スピードに乗ってくるときには、重心鉛直点は問題でなく、重心の位置が重要になる。走る=両足が接地していない時間があるという定義だから、当然なのだけれど。
ぼくらが無意識に行っている「立つ」という動作だけれど、分解してみると面白い。バレエやダンスの人たちは徹底的に鍛えられる。解剖学的に考えてきた積み重ねがあるからね。
そういう人たちの視点を身につける……とても好き。
(付け足し)
古流の動きのなかで、とくに重要な「静と動の組み合わせ」や「重みの制御」については、少しずつまとめます。これまで読んできた本には、内的な論理を説明したものがない。
重大な問題だよ。『五輪書』みたいに内的極致を書き記したものがあるのに、現代の科学的理解でアップデートする本がない。口伝に頼ってる。言語化できるところは、ぜんぶ解体しきらないと。