RAD「五月の蠅」
ツイッターで「こんなの書くやつは許せない」とRTされてきた、RADWIMPSの「五月の蠅」の歌詞を見た。
気持ち悪さがぶわっとこみあげてくる。
生理的に嫌悪感をもたらす表現のオンパレードだ。言葉はわかるけど、何を言っているのかわからない。狂気を閉じ込めた詩だった。
そういう第一印象をもったまま、次の瞬間、ぼくの脳みそは客観的な評価に入る。
「詩だけ読むんじゃわからない。完成形は歌だ。歌を聞いてみよう」
Youtubeの公式チャンネルでMVを見ると、詩とはまったく違う印象を受ける。あまり日本語が聴きとれない(ぼくだけの問題かもしれないが)。感情をいれずに淡々を歌っているし、危ないところは楽器の音で覆い隠している。「きみをゆるさない」だけはっきり聞こえるけれど、こんなのは普通だ。
字面だけ見るとアウトだけど、歌にするとそうでもない。むしろMVで描かれる、じわっと粘着性のある血のような液体には芸術性さえ感じる。
完成形の歌としては、「ゆるさない」の裏返しとして、血を流すほどの歪んだ愛を表現している。
何度か詩を読みかえす。
表現方法は過激で、下劣で、犯罪的で、直接的だけれど、表現したい気持ちはあらわされている。憎悪と化すほどの愛情である。
直接的には、まだ愛している彼女に一方的に「ぜんぜん好きじゃなかった」と言われた彼氏の気持ちだろう。
どうしようもないほど好きで、いままで彼女も「私も好きだよ。結婚しようね」と言ってくれていたのに、実は二股されていたことに気づく。「ふざけんな、このアマ」。壮絶な魂の叫びである。結婚詐欺のイメージでもいいかもれない。
すべてをめちゃくにしたい、罰したい。サディスティックな側面がぶわっと噴出する瞬間。
もうすこし幅広く考えてみる。
これは「女性への愛憎」を描いていることは間違いない。
もし男女逆にしたら、どう感じるだろうか。「男に捨てられて、殺したいほど憎む。あいつなんかめちゃくちゃに破滅しろ」と願う。なんというかありな気がする。
ここまで考えると、依存するほど愛していた相手に裏切られたときの憎悪を、ここまで直接的に表現できた特異さがきわだってくる。
じわじわと自主規制が厳しくなっているいま、2010年代の音楽業界でこんな曲を出せるのか、と驚く。
音楽だけではなく、ほかの芸術と比べてみる。
深町秋生さんの『果てしなき渇き。』では、妻をレ○プする男が視点人物になったり、レ○プされる男子高校生の細かい描写があったりする。25万部売れている。
押切蓮介『ミスミソウ』は、女子中学生の狂気狂気狂気。火をつけるし斬りつけるし斬り刻むし殺すし、という感じである。
こういう作品は好きじゃないから、多く読まない。しかし、そんなぼくでも、まだまだ上げられる。それは、そういう感情が自分のなかに深く爪痕を残していくからだ。毒が自分のなかに沈殿して離れない。
「五月の蠅」で描かれる感情は、珍しいわけではない。芸術って、そういうもんじゃないのと思う。「五月の蠅」は直接的過ぎるから、反射的な拒否反応を催すひとがいるんだ。
一流の作品は、そぉっと心のなかに忍び込んで、なんでもないように受け手の世界観を変えている。