白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

宮下奈都『羊と鋼の森』

宮下奈都『羊と鋼の森』(文芸春秋、2015年)。

2016年本屋大賞受賞。

 

大学4年、オーケストラをやっている友人に誘われて、はじめて生のクラシックに触れた。

プログラムが本棚にある。合計三冊。

あと1週間と少しで、もう一冊加わる。大学生最後は、クラシックの年だった。

 

そういえばと思って、『羊と鋼の森』を読むことにした。

新米の調律師の物語。美しい物語だった。

 

【あらすじ・流れ】

調律の世界に入るのは、ふとしたきっかけだった。たまたま学校のピアノを調律する様子を見ていた。その調律師の作る音に、「僕」のすべての感覚が揺さぶられる。居場所を見つけた気がした。

 

調律師になって、先輩について家を回っているとき、仲良くなった高校生のふたごの家で、はじめて調律をする。否、してしまう。

「ほんの少しだし、見習いといっても1年たっている。できるだろう」

できなかった。

できるわけがなかった。僕は打ちのめされる。自分ひとりでは、なにもできない。

 

数年たって、調律を任されるようになる。しかしどこか先輩たちの域には達しない。どこがどう悪いのか、どうすればうまくなるのか。模索が続く。

そんなとき、ふたごの片方がピアノを弾けなくなってしまう。精神的なものだろう。「僕」にはどうすることもできない。片方が弾けないから、もう片方も弾かない。だれも弾かないから、調律もキャンセルされる。

 

弾けなくなったほうは妹。弾かなくなった方は姉。

やがて姉が弾くようになった。

先輩とふたごの家の調律に向かう。僕は、最初のころとは違うところに目が行くようになっている。部屋のなかでの、音の響き具合だ。調律は、ピアノだけに向かうものではない。ピアノがだす音の響き具合は、それぞれの環境でまったく変わってくる。しかし、僕は調律しない。

 

先輩が調律したピアノを、姉が弾く。

 

湧き出す音。ピアノが息を吹き返す。

姉「ピアノを食べて生きていくんだよ」。

 

ふっきれた姉の演奏を聴いて、店のみんなは、こころが揺さぶられる。

妹は「ピアノをあきらめたくないんです。調律師になります」。

生きる場所を見つけて、それぞれが頑張る。

 

憧れの先輩に「なにがあったんですか」「急によくなりましたね」「音が澄んでいます」と言われる。自覚はないが、よくなったのだろうと、僕ははっとする。

 

先輩の結婚式で、ふたごの姉が演奏することになる。先輩ではなくて、僕がやります、やりたいです。

式場のピアノを調律する。最高の出来に仕上げた。

しかし考慮が足りない。たくさんのテーブルクロスが入っただけで、音の響きが変わることを考えなかった。

ただ、僕は成長している。ピアノを最高の状態にするのではなくて、お客さんが聴いたときに最高の音になるように調律しなおす。たくさんの人が入っても大丈夫なように。

ピアノの演奏はうまくいく。

憧れの先輩から改善点を指摘される。はじめて、技術的なことをいわれる。

ぼくは成長している。しかし道のりは長い。

三秋縋「明日世界が終わるなら」

三秋縋さんのツイッターをたまに見る。

 

そのなかで記憶にあるのが、

 

「明日世界が終わるなら何をする?」と聞かれたときに、

「会いたい人に会いに行く」と答えるのではなくて、

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれないから、結局何もせずに過ごすと思う」と答える人が好きです。

 

というもの。

いまツイッター検索しても見当たらないので、完全に記憶に頼っている。細部は違うかもしれないが、おおかた変わらないだろう。

 

とても衝撃を受けた。

美しい。そして悲しい。

 

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」

こう答える人は、実は幸せな人である。

なぜなら、この人には会いたい人がいるのだ。世界最後の日に、どうしても会いたい人がいる。幸せ以外の何物でもない。

 

しかし、幸せであるはずの人は、幸せにはなれない。

「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」

相手の幸せを考えてしまう。もしかしたら、あの人は私に会いたくないかもしれない。ほかの人と最後の日を過ごしたいかもしれない。

そう考えたとき、自分から会いに行く選択肢は消えてしまう。

 

会いたい人がいるのに、会いたい人の幸せを考えると、会いに行けない。

 

なんという悲哀か。

 

こういう人には

「相手の考えなんて自分にはわからないものだから、とにかく会いに行ってみなよ」

とか

「直接聞いてみればいいじゃない」

とか

そういう助言は意味のないものとなる。そんなこと、すべて承知の上なのだ。

承知した上で、答えている。

 

美しく、悲しい。

 

たった140字に、これだけの物語を込められるのは、本当にすごいと思う。

 

――付けたし

こう答える人は、きっと

「最後の日だから、あなたに会いに来たんだ」

という人を拒むことはできない。相手の想いを、受けとめることを選ぶ。一日を一緒に過ごすだろう。

だから

「私には会いたい人がいるのに、とくに会いたいわけではない人と世界最後の日を過ごす」ことになる。

その思いは、目の前のひとに悟られてしまうわけにはいかない。

 

なぜなら、相手が選んだのは私だから。目の前のひとが、最後に会いたいのは私だから。

世界最後の日に、悲しむのは自分だけでいい。

 

映画『危険な関係』

危険な関係

1989年脚色賞受賞。

ドロッドロの主導権争い。

 

【あらすじ・流れ】

18世紀フランス社交界。

メルトイユ伯爵夫人とバルモン子爵が服を整える。戦闘服である。

 

ふたりは、処女のセシルとトゥールベル夫人を堕とすことに決める。実行役バルモンの成功報酬は、メルトイユ夫人との一夜だった。成功の確認方法は、手紙の盗み見である。

 

女たらしのバルモンは、簡単にセシルを落とす。

しかしトゥールベル夫人は身持ちが固く、なかなか落とせない。相手のこころを揺さぶる手段をさまざま講じて、近づいたり離れたりを繰り返す。相手の気持ちが、徐々に寄ってくる手ごたえを感じていた。

 

いっぽうのトゥールベル夫人は「バルモンを好きだ」という感情を抑えきれなくなり、しかし結婚している身として不実はできない。板挟みになる。耐えられずに、夜中に逃げ出す。

 

驚いたバルモンは、トゥールベル夫人を追って再会し、ついに落とすことに成功する。このとき、バルモンは、女遊びではなく、真剣に好きになっていた。気持ちまで、夫人に寄っていった。しかし、バルモン自身は、気づかない。

 

証拠の手紙を用意せず成功の報告をしにきたバルモンを見て、暗躍していたメルトイユ伯爵夫人は「バルモンはトゥールベル夫人にほんとうの恋をした」と見抜く。この状態で成功報酬を与えることは、自分の品位を落とすことになるから、一夜を拒否する。それだけでなく、新たに愛人を作ってバルモンに見せつけた。「わたしと一夜をともにしたいなら、夫人と別れなさい。遊びだったんでしょう」。

 

バルモンは「it's beyond my control」を夫人に叩きつけ、別れた。この言葉を繰り返すバルモンの顔には、張り裂けるような表情が張り付いていた。自分に言い聞かせるようだった。

言われたとおり、メルトイユ伯爵夫人に別れたことを報告するも、一夜をともに過ごすことはしてくれない。約束を果たさないならば、宣戦布告ととらえるぞ、伯爵夫人に叫ぶ。

 

メルトイユ伯爵夫人「all right. WAR

夫人は、バルモンにたらしこまれた女を好きな男に、真実を告げる。

 

恨みを買ったバルモンは決闘に敗れ、死ぬ。間際にトゥールベル夫人への愛を自覚し、伯爵夫人とのゲームのすべてを世間にさらす。夫人との手紙を社交界に公開したのだ。

 

すべての黒幕、メルトイユ伯爵夫人はブーイングを浴びて、社交界から締め出される。

夫人は、化粧をぬぐう。戦闘態勢を解いた。

 

【感想】

主導権の奪い合いである。

最初はゲームだったのに、愛が加わって嫉妬が絡んで尊厳がかかわって、最後には全存在をかけた戦争に発展する。

 

外国人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、最初のほうはなかなか世界に入り込めなかった。それでも中盤以降のぶつかりあいは圧巻である。

すごい。

三浦しをんさんの短編プチ指南

三浦しをんという名前を聞いたことのあるひとは、多いと思う。小説家である。

名前に聞き覚えがなくても、『舟を編む』という本の題名は聞いたことがあるだろう。この小説は、本屋大賞を受賞しており、映画化もされた。さいきんノイタミナでアニメ版も放送されもした。このどれかに触れたひとも多いはずである。

 

小説家が、どのように話を書いているのかを知ることは面白い。

まして、それが本屋大賞を受賞するような売れっ子作家だったなら、なおさら。

 

そんな三浦しをんさんが、webで「小説の書きかた」について連載している。

集英社Webマガジン『Cobalt』の「小説を書くためのプチアドバイス」であるhttp://cobalt.shueisha.co.jp/write/column-miura-shiwon/000543/

 

とくに第4回では、自作の「星屑ドライブ」を例に、どのように短編を構想したのか、順序立てて書かれている。売れっ子の作家が、Webで執筆過程をこれほど明らかにしているのは、あまりない。

興味深く読めた。