白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

映画『素晴らしき哉、人生!』

フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!1946年。

 

いままでで、もっとも感動した作品である。

どうしようもなく、ラストで泣きつづけた。映画でこんなに泣いたのは、はじめてだった。

事実、アメリカ映画協会の感動した映画でトップに選ばれている。理想像がありながら、ままならない現実に耐えて生きている人間を、まるごと受けとめてくれる。ラストでは、幸せに包まれること請け合いである。

人間が、すこし良くなる。

 

【感想】

町を出て大きなことをしたい。いまのままじゃダメだ。こんなんじゃダメだと自分に言いつづけてきた主人公。

自分では気づかないうちに、周りに大きな影響を与えて、幸せにしてきた。

生まれてこなきゃよかったんだ……そう思うほどの絶望に接し、助け(さらなる絶望)が与えられる。

主人公はどん底で気づく。自分を責めていたのは、見当違いの話だった。大きなことをしたいという夢は物質的なものではない。精神的に周りの人を幸せにしてきた。自分もほんとうは幸せだったじゃないか。

 

ありえないほどの感動である。主人公の表向きの夢が、挫折し挫折し絶望する。最後の最後でほんとうの望みに気づく。すでに主人公は普段の行動で成し遂げていたのだ。

過去は変わらないけれど、ラストで主人公は過去を再解釈する。自分はこんなにも満ち足りていた。

こころの動きが完璧なまでに描かれている。

導入や途中のエピソードで、多少冗長に感じるかもしれない。その場合は、遠慮なく1.5倍速でいい。最後の最後で、普通の速度に戻そう。

この物語を見ないのは、人生の損だ。

 

【あらすじ・流れ】

導入:主人公ジョージの紹介部分はとても長い。

ジョージはこころ優しく、他人のために自分を投げ出すことのできる人間だった。弟を救うために凍るような水に飛び込み、片耳の聴覚を失う。知り合いのおじいさんの処方箋の間違いを指摘して、おじいさんと患者を救う。

そんなジョージを見ていた天使がいた。

ジョージには夢があった。住宅金融を営む父親のように、小さな町で一生を終えるのではなく、この街を出て、世界を股にかけて活躍したい。

 

 

物語は、父親が死ぬところから動き出す。

父親が死ぬと、営んでいた住宅金融が存続の危機に陥る。この会社がなければ、町の貧乏人は自分の家が持てない。敵対している金融業者は、貧乏人から金をむしり取っていた。

父親の住宅金融は、町の人を幸せにしていた。ジョージは世界に出るのを中止した。弟が大学を卒業して住宅金融を引き継げるようになるまで、自分が町を守ることに決めたのだ。

 

しかし大学に行った弟は、そのまま外で所帯を持ち、生活することになる。他人の幸せを願うジョージは、大きく反対しない。しかし鬱憤は募る。

 

幼馴染と結婚したジョージは、ハネムーンで世界旅行を予定していた。手元には、たくさんの紙幣がある。世界への切符である。

しかし銀行の取り付け騒ぎが発生する。ジョージの住宅金融にも人が押し寄せ、預金を引き出そうとした。やむなく手元の現金を使い切って、危機を脱する。今回も世界には出られない。

 

貧乏人相手の住宅金融は、もうからない。家族に満足な暮らしをさせてやれない。

敵対していた金融業者が高い金でジョージを雇い入れるともちかけてきた。一瞬、金額に目がくらむけれど、町の人たちのことを思いだして断る。ジョージは自分のことよりも、町の人たちを最優先に考えていた。

 

第二次世界大戦が始まる。ジョージは聴覚障害で兵役が免除された。弟は海軍航空兵として活躍し、勲章をもらった。町の英雄として、クリスマスに凱旋してくる。戦争に出られないジョージにとって、ほこらしいことだった。

その日は、住宅金融に監査が来る日だった。適正な取引をしていて、金庫には充分な現金があることを示さなければいけない。

不運なことに、事業を手伝っていた親族の手違いで、現金8000ドルを紛失してしまう。全財産だった。これがないと監査に通らず、ジョージは責任者として捕まってしまう。いくら探しても見当たらない。ジョージの人生は、いつもことが思うように運ばない。楽しいことは、すべて邪魔される。

帰宅して家のなかもひっくりかえすが、予備の金などない。妻にも、子供たちにも、電話をかけてきた相手にもあたってしまう。

なんでこんなにうまくいかないんだ……おれがなにをしたっていうんだ……家族にはこんな貧乏な家にしか住まわせてやれない……自分の夢も我慢して生きてきたっていうのに……生きていて意味があるのか……生まれてこないほうがましだったんじゃないか

ジョージは自分の人生に意味を見いだせず、金を工面するために自殺しようとした。町の人にも、敵対業者にも頼めない。橋の欄干に手をかけた。そのとき、天使が川に飛び込んだ。

他人を優先するジョージは、こんなときでも、飛び込んだ人を助けだした。

天使は、不運続きのジョージを救うために天界から送られてきたと語る。ジョージを救うことができれば、天使の階級があがるのだと。

 

ジョージは絶望している。天使の言葉など、妄言だと切り捨てる。天使がいるなら、自分の人生はもっとよかったはずじゃないか。

自分なんかいないほうがよかった……そうすればみんなもっと幸せになれたはずだ。

 

このつぶやきを聞いた天使は、「ジョージが生まれなかった世界」を見せてあげることにした。

 

ジョージは酒場に行く。楽しいはずの酒場はすさんでいて、貧乏人は門前ばらい。知っている人も、自分だと認識してくれない。ジョージが助けた処方箋のおじいさんは、殺人者として投獄された。

町も退廃している。ジョージが資金援助して大都会に行ったはずの知り合いは、町で水商売をしていた。ジョージが金を貸して一軒家を与えた貧乏人は、強欲な金融業者のせいで、ボロ長屋に住んでいる。

弟は、ジョージがいなかったせいで、そうそうに死んだ。妻になるはずの人は、ひとり身で生涯独身だった。ジョージをみて、変質者だと逃げる。

自宅があるはずの場所は、とうに荒れ果て人が住めるようなところではない。

 

ジョージは、自分がいなかった世界を体験していくうちに気づく。

自分がいなかった世界は、こんなにも悪い世界になっていた。自分がやってきたことは、周りをとても幸せにしていた。

「外に出て、大きなことをしないといけない」という思い込みにとらわれていたけれど、この町の命運を、これだけ変えていた。いままで自分が気づかなかっただけで、すでに大きなことを成し遂げていた。

 

自分がほんとうにしたかったことはなんなのか。自分が求めているものはなんなのか。

町を出て、世界を股にかけて活躍することか。世界を変えるような仕事をすることか。違う。ほんとうにしたかったことではない。

むかしの夢は、「父親のようにはなりたくない」という感情の裏返しにすぎなかっただけだ。地に足がついていない、空虚な夢だった。

求めている幸せは、実は、身近なものだった。

 

この町を変えて、周りの人たちを幸せにしてきたではないか。そんな人たちに囲まれてきて、幸せだったじゃないか。自分は、「町を出たいのに、出られない」という満たされなさだけではなかった。周りの人たちと、一緒だったじゃないか。それを幸せと呼ばずして、なんと言うのか。

自分の人生が不運ばかりで、生まれた意味がなかったなんて、なんて視野が狭まっていたのだろう。

 

こう気づいたジョージは、天使に言って元の世界に戻してもらい。家に走った。

家に帰ると、監査役がいた。牢獄に連れていかれるけれど、そんなことはどうでもいい。自分の名を呼んでくれる。監査役に抱きつく。ありがとう!

子供たち、ありがとう! 生まれてきてくれて、ありがとう!

妻が、外から帰ってくる。きみ、ありがとう! 隣にいてくれてありがとう!

 

妻は外で何をしていたのか。

町の人にジョージの危機を伝えたのだ。町の人は、妻の後ろにならんで家に入ってきた。次々とテーブルの上にお金を置いて行って、クリスマスの祝福を言った。テーブルには、お金の山ができる。人波は途切れない。

弟も帰ってきた。町から出ていった人たちからも、融資の電報が届く。家にはクリスマスのメロディーが鳴りひびき、みんなで歌う。

 

人生で最高のクリスマスだった。自分の人生は、こんなにも満たされていた。

 

素晴らしき哉、人生!

福永武彦『愛の試み』

福永武彦『愛の試み』(新潮文庫1975年)。

 

池袋西口から立教大学にいたる道には、文庫本専門の書店がある。大地屋書店と言う。

個人でやっているから、「こういう本はありますか」と訊くと、すぐ答えが返ってくる。何回か通えば、馴染みとして顔を覚えてもらえるのだろう。そういう店が大学の近くにあるなんて、幸運である。ぼくの大学にはない。

 

そこで本書を買った。福永さんの『愛の試み』は、孤独と愛にかかわるエッセー集である。最後のエッセーから、長めに引用したい。

 

「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」

僕は「雅歌」のこの言葉を好む。これは人間の持つ根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」――そこに自己の孤独を豊かにするための試み、愛の試みがある。その試みが「尋ねたれども得ず」という結果に終ったとしても、試みたという事実、愛の中に自己を投企したという事実は、必ずや孤独を靭くするだろう。……愛が失敗に終っても、失われた愛を嘆く前に、まず孤独を充実させて、傷は傷として自己の力で癒そうとする、そうした力強い意志に貫かれてこそ、人間が運命を切り抜けていくことも可能なのだ。従って愛を試みるということは、運命によって彼の孤独が試みられていることに対する、人間の反抗に他ならないだろう (155156頁)。

 

人は、意識しているかしていないかにかかわらず、孤独である。ただし孤独というのは、無価値な状態を指した言葉にすぎない。

その孤独な人間が、自己と世界をどう認識し、そのうえでどう行動するかによって、価値が付与される。

 

本書では、消極的な孤独と積極的な孤独が対置される。消極的な孤独とは、内に閉ざして、ただ自分のなかに沈み込んでいく孤独である。積極的な孤独とは、外に開いて、それだけで充足している孤独である。

 

充足した孤独。

そこでは、愛が試みられる。他者とつながろうとする。他者とはすなわち、異性である。異性は社会への窓口である。

 

孤独と愛にかかわるエッセーを読むことは、充足した孤独を試みることにほかならない。

9篇の掌編も挟まれていて(これが実におもしろい)、たった400円である。買いだ。 

エッセー、あるいはある人のこと

ぼくは、自分の家が好きではなかった。

お彼岸のときは、親戚が集まってかならず勤行をする。大きな線香を立て、漢字の横のふりがなを機械的に音読する。金もあれば、木魚もあり、錫杖も使う。燈明を灯もし、飲食も供する。10数人で夜に行うから、「声がうるさい」と隣家から苦情が来たこともあった。ぼくは、あまり大きな声を出さないのが常だった。

だいたい30分間はかかる。最後には脚がしびれて、立ち上がれない。

毎年2回、これを行う。迎え火や送り火も行う。線香の匂いが服にこびりついて、数日間そのままである。線香の匂いが嫌いになった。

読経する意味を感じられなかった。

 

高校の部活で祖母の実家の島に行ったときには、ぼくだけ一旦抜けて祖母と会った。お墓の前で読経を行うためである。

はじめて会う親戚の女の子が後ろで見ているなか、砂利に正座をして、簡単にお経を唱えた。隣に祖母がいるから、しっかり声を出さなければいけない。どれだけ恥ずかしかったことか。終わったあと、祖母の「ありがとう」に曖昧に答えた。はっきり言って、やりたくなかった。

ほんとうに嫌だった。

 

イギリスに行ったことがある。そこの人はみな、日曜日に教会に行くらしい。

「ほんとうにキリストを信じているの」。同年代の男に訊いてみた。

「ほとんどの人は信じてない。僕もね。でも行くのさ」

こう答えられた。

 ※

 

つい先日、とても親しくしていた友人が、急に亡くなった。

2週間前に一緒に飲んだばかりだった。バカなことばかりを言いあって、最後だからと少しの秘密も打ち明けられて、卒業式で会おうね、と約束した。

終わって、ラインで「お土産、渡すの忘れた!」と言っていた。ぼくは「卒業式で、また会うだろう」と思って、とくに返信しなかった。

 

そのときでいいや。

 

 

よくなかった。

 

 

第一報はスマホの電源を切っていて、取れなかった。5時間くらい経ってから、共通の友人たちからラインで知らされた。

犬の散歩の途中だった。文面が理解できなかった。けれど、衝撃が胸の奥にどろりとひろがり、息をするのが難しくなるのを感じた。唾がでてきて、何回も飲み込んだ。

すぐには返信できなかった。しかし、対応しなければいけない。40分くらい歩いてから、道にしゃがんで電話をした。犬がそばにいた。

寒空のなか、冷えた指と光る画面だけがあった。無性に犬を抱きしめたくなった。他人の体温が恋しくなる。

 ※

 

次の日から、お腹が痛くなった。前にもこういうことがあった。ストレス性の胃痛だ。

痛いけれど、どこかほっとしていた。親しい友人の死が、自分に対して衝撃を与えたという証拠である。無意識下で、すんなりと受け止めているなんて、そんな無情な自分ではなかった。

同時に、死を死として受けとめられるような距離感でもあった。近すぎず、遠すぎず、ちょうどよい親しさだった。

 

身体に出てくるほどのストレスが積み重なったとき、早朝と夜は大敵である。気もちが下がる。涙が出る。自分を責める。いちばん危ない。

誰かにしゃべりたい。共有したい。慰めあいたい。けれど、ほかの人は、ぼくよりその人と親しかったり長くつき合っていたりして、対等な感情ではない。ひとを失ったときの感情は、それまでの関係性に規定される。相談できる相手を考えたとき、ぼくは浅いほうだった。他の人は受け止めているのに、ぼく程度が、泣き言を言えるか。

 

そもそも誰かにすがりたいとき、(所属する集団のなかで)ぼくが頼っていたのが、その人だった。すがりたいと考えて、はじめて言語化できた。

 

「ざんげ

させて

○○ぴ」

 

個人ラインをたどっていくと、こんな感じで会話を始めた形跡がある。

決まって、

 

「うけとめるよ

なんでしょう」

「大丈夫だよ○○ぽん」

 

なんて優しい言葉が返ってきていた。自分のことで手いっぱいでも、誰かに頼られたら、その期待に答えてしまう。そんな人だった。

その甘さに甘えきっていた。

ぼくは何も返すことができなかった。

 

数日後、葬儀は、ご親族のあいだで行われた。ぼくでさえ、これだけつらいのだから、生まれたときからそばにいた人たちは、どれだけだったのだろうか。ぼく程度が、つらいとは言っていられない。

 

けれど、つらいものはつらい。お腹は痛い。なにか違うことをしなければいけない。

引っ越しのために部屋を片づけていると、その人からもらったワインボトルやコピーしたノートが出てきた。出てくるたびに、涙がにじんだ。捨てられない。とてもじゃないが、家にいられない。とりあえず、大学に行くことにした。

気もちに、区切りが必要だった。

 

こういうとき、彼氏彼女がいるひとは、ふたりで乗り越えるのだろう。

ぼくにはいない。どうしようもなく、だれかに会いたくなる。自分の根幹が揺れているときは、なにか確かなものにふれていたい。だけど、ぼくの会いたい人の会いたい人は、ぼくではない。

 ※

 

慶應義塾大学の近くには、走って10分くらいのところに、増上寺というお寺がある。芝公園のなかにあって、すぐ後ろには東京タワーがそびえている。

 

増上寺ではちょうど法要が行われており、誰でも焼香ができた。作法にのっとって行うと、とてもいい香りがした。

目の前には、阿弥陀如来の座像がある。きれいに磨き上げられた床に反射され、とても近くに思える。3月のひんやりとした空気。観光客もいるだろうに、団体さんも自然と声をひそめる空間。数人が椅子に座って、ただ如来を眺めている。

 

30分くらい、そこに座った。ただ涙が出てくる。鼻にも少ししょっぱい。

5時には目の前で僧侶たちが勤行をしてくれる。ぼくの横で、さまざまな人が手を合わせている。ぼくは、ひとりじゃなかった。

 

お寺の意味がはっきりとわかった。

誰にもすがれず、自分で乗り越えなくてはならないとき、ただ見守ってくれる存在と場所が必要なのだ。その手助けをしてくれるのが、お寺だ。

 

昔から仏教は、ぼくのそばにあった。邪魔ものだと思っていた。そのときには必要のないものだった。いまは違った。

 

ぼくの家は真言宗豊山派である。増上寺は浄土宗である。

しかし、そんな違いはどうでもいい。つらいときに、ひとりで瞑想できる場所が必要なだけだ。

 

僧侶たちの勤行が終わったとき、ぼくの服には焼香の香りがついていた。

 

もう嫌な香りではなかった。

お腹の痛みも、和らいできた。

 

友人の死から、1週間くらいたった。

昨日はお彼岸だった。ぼくの親戚が集まって、いつものように勤行をした。実質、東京で最後のお彼岸である。しばらく戻ってくる予定はない。

20数年生きてきてはじめて、お盆をした気がした。この感覚は、忘れることはない。

 

春からは京都に住む。

もらったボトルをもって行こうと思う。

映画『秒速5センチメートル』

新海誠『秒速5センチメートル』2007年。

 

2017317日深夜、テレ朝で新海誠監督『秒速5センチメートル』を放送していた。

高校時代に弟から薦められて以来、見る機会があると見てしまう。

 

欠点があった。かつての新海さんは、描きたい感情をそのまま描いてしまっていた。表現手法と描きたい感情を、同じように採用するため、伝わらない人には伝わらない。新海さん自身も「伝えたいことが伝わらなかった」と言っている。これは作家としての個性であり、欠点ではなく特徴でもあった。ただ、違う表現を考えたほうが、幅広く伝えることができる。『秒速5センチ』もそうである。

昨夏の『君の名は。』は違った。せつない・やりきれない・淡い感情をそのままに描くのではなくて、物語に乗せて、感情を伝えることに成功していた。日本アカデミー賞脚本賞を与えるにはまだまだだと思うが、新海さんの脚本面の成長には、目を見張るものがあった。

圧倒的な映像と音楽、伝えたい感情。これらに、ある程度の脚本が備わったのだから、興行的な成功の必要条件は充分あった。現に29週目でも10位を保っている。驚異的な数字である。

昨夏に見たとき、「新海さんの次の作品は、すごいことになる」と思った。早く次の作品が見たい。

 

1

「秒速5センチメートルなんだって。桜の落ちるスピード」

13才の遠野くんと明里さん。

ふたりは、言葉には出さないものの、双方とも相手に好意をもっていた。明里さんが転校することになり、ふたりは離れ離れになった。手紙のやりとりをするうちに遠野くんも引っ越しが決まり、最後にふたりは会うことにした。

遠野くんは、はじめての遠距離旅行。気もちは手紙にしたため、電車もしっかり調べた。しかし当日は雪で、電車が遅れに遅れる。ふぶく雪。暗くなるそと。郊外に行くほど、ひとはまばらになる。待ち合わせはとっくにすぎ、渡すべき手紙も飛んでいく。

駅に着くと、明里はひとりで待っていた。ふたりはご飯を食べ、桜の木の下でキスをする。しかしそれは、別れの印でもあった。

プラットフォームで明里が「貴樹くんは、きっとこの先も大丈夫だと思う。絶対」と言う。ふたりは別れる。【ぼく:大丈夫じゃないよぉぉぉ】

明里も手紙をもってきたけれど、渡せない。ふたりのあいだは、なにか阻まれていた。

 

2

遠野は種子島で高校3年生をやっていた。いまでも明里のことが好きで、どこか寂しげ。しずかに弓を引いていた。

そんな遠野は、ほかの男子とは違って見えた。花苗は遠野のことが好きだった。花苗の視点で、第2話が紡がれる。

遠野の帰る時間を見計らって、毎日一緒に帰ることだけが楽しみだった。自分の気もちは伝えられない。

恋や進路に悩む日々。趣味のサーフィンでも、悩みを反映して波に乗れない。

ある夜、遠野に進路のことを聞く。迷いがないように見えて、ただ優しく、どこか超然としていた遠野でさえも、悩みがあることに気づく。わたしだけじゃないんだ。ロケットの運搬車に出会う。「時速5キロメートルなんだって」

憧れの人だって悩んでいることに気づいて【?:甘いと思う】、気もちが解放された花苗は、遠くを見て悩むのではなく、目の前のことに一生懸命になると決めた。サーフィンで、波にも乗れるようになった。告白するなら、いましかない。

遠野と一緒に歩く。しかし遠野は、私を見てなんていない。はっきりと、ダメなんだと悟る。「お願いだから、もう私に、やさしくしないで」。ロケットが、宇宙をめがけて飛んでいく。震える空気。たたきつけられる音。あとに残る飛行機雲。

何もいえなかった。遠野が好きだけど、仕方ない。

 

3

東京で仕事をするようになった遠野は、いまでも明里のことが好きだった。ほかの女には、こころを開けない。

気を紛らわせるために、仕事に打ち込む。打ち込む。日々、こころの弾力が失われていく。あるときふと、仕事をやめようと思う。仕事をやめた。

雪の降る日々、都会にはたくさんの人がいる。しかしまだ、明里が好きだった。

いっぽうの明里は、知らないうちに婚約していた。

 

【感想】

何回見ても、せつなすぎる。

とくにこれから、東京を離れて、京都に行く。せつない。

モノローグを多用して、登場人物の内面描写をじっくり行う。短編小説を読んでいる雰囲気になる。