天授庵
スマホのデータをPCに移行したので、ぼちぼち京都観光をまとめていく。
天授庵。南禅寺のすぐ横にある。
拝観料は500円。山門に登って、ここの庭園を見ないのは損である。山門に登るよりも優先順位は高い。
ここは枯山水が有名だけれど(そうだ京都行こうの写真にもなってる)、枯山水はそれほどでもないと思う。
枯山水を抜けたところからが本番である。
苔庭が拡がるのだ。小さな門を奥にして、もみじが立体感をだす。下を覆う苔が雰囲気を醸していて、石畳が苔を分けて奥にいざなう。
この光景を建物の縁側で横になって眺めることができる。何時間でもいられる。ずっと読書していた。ふと見上げると最高な光景が広がり、耳をすますと水音が聞こえる。
門をくぐると、池がある。糸のような滝から水がゆっくり流れ込んでいて、水面は対岸の木々を反射するくらい穏やかである。
こういう庭園を探していた。
苔が屋根を覆っている。よきかな。
セネカ『人生の短さについて』
セネカ(中澤務訳)『人生の短さについて他2篇』(光文社古典新訳文庫、2017年)。
とりあえず表題作だけ読んだ。
多くの人の人生は、他人のために浪費されるのみである。そうした人生は他人を中心に回るから、多忙を極め、人生は短い。
いっぽうで自分の人生を生きている人にとっては、人生は長く充実している。人生を、自分に取り戻すことが大事である。
ある研究者の先輩と話したとき、「学生のうちは自分の関心と社会の関心をすり合わせなくていいんだよね。ぜんぜん重ならなくていいの。好きにやっていい。それが学生の特権。でも社会に出るときには、自分と社会の関心が重なり合う場所を探さないといけない。そうじゃないとやっていけない」といっていた。
そのときも、概念上は理解できた。でも最近は、身に染みて理解できる。どこかで重なるところを見つけ出さなければ、自分のこころをすり減らす一方であり、こころの弾力が消え去ってしまう。
なにごとも「自分を知る」という問題に行き着く。世界で一番長く過ごしてきた人でありながら、外からは観察できない他人。もっとも身近な他人、自分。
『「自分らしさ」の構造』では、その見つけかたについても触れていたなぁと。
曼殊院、修学院離宮
修学院離宮 http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/shugakuin.html
曼殊院http://www.manshuinmonzeki.jp/index.html
2017年5月18日に、この二つに行ってきた。ついでに御霊祭も見た。お祭りは関東と変わらないので割愛。古楽の笛の音が美しく響く。
(註:自分の日記では各所に写真が入っているのだけれど、アップロードがめんどうなので割愛)
修学院離宮を見学するには、事前申し込みと当日受け付けの二種類がある。事前申し込みは少し面倒だけれど、あらかじめ予約ができるのと午前の時間帯を設定できるのが大きい。当日申し込みは、1330と1500の回だけであるうえに、現地の門まで行かなければならない。
12時くらいに行って、1330の回を予約した。この時期は、意外と遅くまで人数が埋まらない。1500ならギリギリに行っても大丈夫な感がある。
時間まで、近くの曼殊院に行くことにした。
院内の写真は禁じられている。庭も有名だけれど、一部は改修中で、いま見るのはあまり適さない。
これはすごいなと嘆息したのは、孔雀の間と不動明王坐像、立華図。
孔雀の描き出すときの筆遣いがそのまま伝わってくる。ふすまの色をうまく残すことで、羽の紋様が浮き出て見える。立体感のある孔雀が左右に配置されるので、あたかも孔雀に囲まれているかのような感覚がある。
不動明王坐像は、不定期で公開しているらしい。焔の形をした光背が前にせり出していて、明王の顔よりも前にある。照明も赤黒っぽく、雰囲気がある。
縦長の和紙の下側に配置された生け花の画。線が細いのに力強さがあって、そのときだけのはずの生け花が、いまも生きている感じがする。和紙の白によく映える。
そのほかにも、卍くずしの欄間や、無窓の席、曼殊院棚なんかは何も知らなくても美しいなあと思った。
拝観料は600円。坂がかなりきつい(ママチャリを押して上った)。けれど、苔が美しいし、青もみじがいい感じ。
1330からは修学院離宮へ。
地元民なので自転車で行く。山のふもとなので、なかなか坂がきつい。50人以上いた。
京都御所のような自由参観方式ではなく、ガイドさんについていく形。ご年配のかたがほとんどである。はぐれると、閉ざされた門のなかへ入れないし、出られない。緊張感がある……というのは冗談で、一番後ろを皇宮護衛官のかたがついてきてくれる(監視される)。
棚田のど真ん中に御所を作ったので、見学する三つの場所以外は田んぼだったり畑だったり。なおいまの時期は田んぼに水を優先的に回しているため、庭園には水が少ない。残念。
一番上には、池がある。ここでキノコ狩りや月見を行ったらしい。池に映った月を眺めながら、眼下には洛中と御所をおさめる。風雅だ。
全行程で60分ほど。ずっと歩きっぱなしである。30度近い日のお昼だったけれど、風が抜けていくからそれほどつらくはない。雨が降ったら大変かもしれない。備えつけの傘があったので、それを使うのだろうとは思うけれど、雨の日には行きたくないかな。
紅葉の時期にまた来たい。
なんの研究をしているんですか
誰かに会うたび、「大学院生です」と自己紹介する。
嘘ではない。大学院に籍を置いているのだから。
わかっている人たちは、続けてこう問う。「なんの研究をしているんですか」。ぼくは学部卒論の内容を答える。
嘘ではない。あの論文は、考察すべき点をいくつも残している。考えていないことはない。
しかしながら端的にいって、ぜんぶ嘘である。上の回答は、すべて詭弁にすぎない。ごまかしだ。
自分がよくわかっているし、同等かそれ以上に、相手側にもわかってしまう。
とある政府系シンクタンクの説明会に出た。
このシンクタンクは近年採用に力を入れており、今年はとくに採用枠が多い。この先も、この分野の研究を地道に続けていれば、博士途中には拾ってもらえそうな感がある。
周りにいた人のうち3人からは、黴臭い史料の山に埋もれて研究をしてきた人特有の雰囲気が感じられた。類は友を呼ぶというけれど、なんとなく同類のにおいはわかる。
同じにおいがした。正確にいえば、学部2年までのぼくと、同じにおいがした。
いまのぼくからは、どこをほじくり返しても同じにおいはしない。
質疑応答で、目の前の研究者にもわかっただろう。ぼく程度がにおいの違いに気づくのだから、その世界で何十年とやってきた人が気づかないわけがない。
「こいつは研究をしていない」
確実に伝わった。そのことがはっきり伝わってくる。ぼくは場違いな存在だった。
去年すこしだけ就活をやった。ある新聞社の面接で、「あなたは、価値を感じていない仕事もできますか」と訊かれた。
訊かれた瞬間、どう答えればいいのか、迷った。当然、価値を感じていないことなどやりたくはない。けれど面接という場では「できます」と言わなければいけない。できます、というようなことを、たどたどしく答えた。その後の連絡はなかった。
研究をしていない院生という、矛盾した立場にある。
そうしたところにいるのだからと、いままで関心のなかった講義を中心にとっている。食わず嫌いなだけであって、すこし勉強すれば楽しいところが見つかると言い聞かせながら、「つまらない」という感情を飲み込んで日々を過ごしている。
北方兄さんに怒られそうな生きかたである。