白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

説明の仕方

とある講義の一風景。

 

教授が人を指名する。

多元主義って、なに? 説明して」

質問は突然やってくる。指された人は、一気に緊張したのだろう。心拍数があがって、呼吸が浅くなる。その証拠に、若干声が高めになっている。

「えー、さまざまな、利害関係者が……」

一語一語確認するように、多元主義を説明しようとする。声が震えている。それを聞きながら、ぼくは違うなと思う。この先生が求めている答えは、そのレベルの説明ではない。もっと上のレベルだ。ズバッとひと言で答えるのがただしい。いつも、そういう問いかけしかしてこなかった。

回答を聞く先生の顔をみると、がっかりした表情がみえる。腕組みをして、机に腰かける。それでも答えを聞きつづけている。いちおう答えが終わってから、先生はこう言う。

「それはもちろん多元主義だ。でも私は、『民主主義を成り立たせるもの』だと考えている」

必死に答えたほうからすれば、いやそれはないでしょと思う。こっちは内在的に説明しようとしたのに、先生は外在的にグイッともっていく。先生の頭のなかで完結された問いじゃないか。こっちに押しつけるなよ。

でもぼくは、かっこいいと思った。ゾクゾクした。この一瞬のために講義に出てるのだ。

 

説明の仕方にはさまざまある。

図を使ってもいいし、身体で表現してもいい。もちろん言語で説明してもいい。それぞれの特性がある。でも、この場では、即座に、言葉で説明することが求められた。

ぼくなら、どう答えたかなと想像してみる。たぶん「自由を担保しながら共存する努力」って答えるかもしれない。嘘だ。質問された直後にパニックになって、「利害関係者が・・・・・・」みたいに1分くらいクドクド説明する可能性が高い。答えている最中に、先生の顔が渋くなっていくのを見ながら、さらに焦ってしまう。間違ってはいないはずだ。なのになぜ。手のひらに汗を感じる。

直接的には、求めているものと違うからだ。違うのに、長々と説明しているからだ。

根本的には、自分の脳みそを使おうとしていないからである。ギュっと圧縮して「これでどうだ」と全存在をぶつけようとせず、安全圏で回答しているからだ。

 

外在的に説明するのは、リスクが高い。「結局、これが一番重要なんでしょ」と思い切りよく取捨選択しなければならない。しっかり勉強したことを、自分の言葉で捉えなおして、中核の断面だけを析出する。その過程では、失敗するリスクを積極的に負う必要がある。

内在的に説明するのは、リスクが低い。ただしいことを積み上げていくからだ。足りなくても、間違ったことは言っていない。覚えたことを、それなりの形で表現すればいい。

ぼくは、どちらに魅力を感じるのか。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』

岡本太郎『自分の中に毒を持て』(青春文庫、1993年)

 

岡本さんがお坊さんの前で講演を頼まれた。

前にしゃべった講師が「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という言葉を使った。有名な言葉だ。一種真理をついている。しかし岡本さんは、ウソだと思った。最初に言った方は偉い。けれど、今こうして話すことに何の意味があるのか。道で会うのは人間だけである。仏には会わない。こんな言葉に何の意味もないじゃないか。ただ偉い人の言葉をありがたがって、あぐらをかいているだけだ。

講演の冒頭、何千人といる僧侶に向かって、岡本さんは「道を歩いていて、ほんとうに仏に出逢えると思いますか」と問いかけた。当然、何も反応はない。

彼は続ける。「逢いっこない。逢えるはずがないんです。では、何に逢うと思いますか」。反応はない。会場はシンと静まりかえっている。彼は言葉をぶつけた。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ

会場全体がどよめいた。やがて、猛烈な拍手がわいた。

このエピソードには、岡本太郎の信念があらわれている。彼はこう説明する。

「人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。その時、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである」

「己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない」(33頁)

芸術は爆発だ、との言葉を残した男の生きかたである。

 

 

誰でも「芸術は爆発だ」という言葉を聞いたことがある。

岸本さんの『ナルト』を知っているひとは、起爆粘土を爆発させるキャラクターを想起するかもしれない。爆発物が中心にあって、ドカンと音がして、周囲をまきこんではじけとぶ。巻きこまれた木や人や建物は、粉々になる。そのキャラクターは、爆発を遠くから眺めてうっとりする。まるで花火を見ているかのように「芸術は爆発だ」と言う。爆発した一瞬を切り取って、うつくしいと思う。それが芸術なのだと思った。

しかし、彼の意図したことは違った。

「私の言う「爆発」はまったく違う。音もしない。物も飛び散らない。

全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべきだ。いのちの本来のあり方だ」(191頁)。

彼は、自分が完全にひらいている状態を爆発と言っているのだ。しかしそれはたんに、「ひらいている」という静的なイメージでは足りない。爆発という動的なイメージなのである。自分の中心からわきあがってくるものを、そのまま外に向かって放出する。それが爆発なのである。

勘のいいひとは疑問に思うだろう。「この爆発は生きかたそのものではないか」と。「芸術は爆発である」の芸術と矛盾しないか。

そのとおりである。彼にとって、芸術とは生きかたそのものなのだ。アートの意味ではない。

「ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生きかたこそが芸術なのだということを強調したい」(190頁)

彼にとって、芸術とは自分をひらいて強烈に生きることである。こころのありかたが問題だったのだ。そうした生きかたをしているひとを、岡本さんは「ふくらんでいる」と表現する。歓喜にみちた生きかただ。

 

自分をひらいて強烈に生きるとき、ひとは生きがいを感じる。生の実感をえることができる。それを阻むものは何か。

自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ」

自分を大事にしようとする心が、無意識に阻んでしまうのだ。彼は、自分を大事にしすぎるな! と何度もいう。絶望的な危険=死に直面することで、人間の芯が震えるのだ。その危険に自分の身を置いてみろ。その覚悟がなければ、ほんとうに生きていると言えないのではないか。自分を大事にしすぎるな。

 

「いま、現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうか、ということだ。ほんとうに生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかどうか」

「一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り」「本質的に生きているとはいえない」216頁

「強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいにかけようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう

そのとき「死」が現前するのだ。惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。しかし空しい。死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる」(217頁)

 

自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ

 

本棚に置いておきたい一冊だ。

人間は障害物

小雨が降るなか、自転車で走る。

目的地まで1時間くらいかかる。雨も降ってるし、早めにつきたい。

帽子をかぶって目に雨が入るのを防ぐ。レインウェアの上下を着る。荷物をビニールで覆う。

よーく見なければ、僕とはわからないだろう。帽子に隠れた顔で判別するしかない。ちょっとした変装だなとにやつく。

 

自転車をこぐとき、道ゆく人たちは障害物に見える。ぶつかったら負け、突然左右に揺れることあり。要注意。十分にあいだをとって、最短距離で追い抜いたりすれちがったりしなければならない。これはゲームだ。

障害物を避けるのはめんどうなので、たいていは道路の左端を走る。回避義務は後ろの自動車に移る。ぼくが障害物になるけれど、軽車両は本来左端を走るものだ。あきらめてねー、と心のなかで念じつつペダルを踏み込む。

 

バスが停まっている。危険だから歩道に乗り上げる。

めんどうだな。人が降りてくるからスピードを落とさなくてはいけない。障害物がたくさん吐き出されてくる。

バスから降りてくる障害物を抜けてしばらくすると、目の前の障害物からとつぜん声がかかった。

「おうっ!」

なんだこいつと思った。すれ違いざまに顔を見る。

(なんか見たことある顔だ)。一気にブレーキをかける。とまって振り返る。

「お、Mじゃん」と声を返す。「よくわかったな」

「そりゃわかるわ。ここで何してんの」

「庭見にいく。雨降ると石の発色がいいんだよね」

「なーる。んじゃ」

「うす」

会話をしながら、すげぇなと感心していた。

いつもと違う服装で、顔を帽子で覆っていて、自転車に乗っている人間の顔を認識する。しかも、その人間と知り合って数ヵ月しかたってない。わかるほうがおかしい。ぼくなら絶対に無理だ。

道を歩いていたとして、向こうからくる自転車は自転車でしかない。誰が乗っているかは関係ない。自転車という物体が動いてくるだけだ。逆に自転車に乗っていれば、人間は障害物にしか見えない。その人間が誰かなんて問題じゃないから、わざわざ顔を確認しない。

まてよ、と思う。

こういうことはたくさんある。晴れの日でも、自転車に乗ってるぼくに気づくのは、相手側だ。ぼくが歩いているとき、気づいてくれるのは自転車側だ。ふたりとも歩いてるとき、気づくのは向こう側だ。人が多くなると、ぼくは背景や障害物として認識しているのだ。相手側は、人を人として認識している。

「おっ、何してんのー」。

なんでわかるの、という新鮮な驚きがある。返答が遅れる。

 

気づくのってすごくないか。どれだけ解像度の高い毎日をすごしているんだ。

ぼくはどれだけ気づいてこなかったのだろうか。

鴨川と『パレード』

吉田修一『パレード』(幻冬舎文庫、2004年)

 

昼すぎに鴨川に行く。デルタでは、ちっちゃい子が遊んでいる。

「ママー、えびいてはるー!」

「えーどこどこ?……うわっ、つめたっ」

スボンをめくりあげて、母親が川のなかに入っていく。この時期の水は、だんだんと冷たくなっている。子供は川に飛び込んでも大丈夫だ。けれど、大人は片足を入れるだけで全身に寒気が走る。子どもに呼ばれなければ、川に入っていかないだろう。

楽しそうだな、と目を細める。子供も大人も、それぞれ今を楽しんでいる。

こういう光景は好きだ。

 

ぼくは川べりで本を読んでいる。

本に集中しているときは周りの音が聞こえない。集中できなくなると、周りの音が気になってくる。そういうとき、伸びをしながら鴨川を見渡すのだ。

いろんな人がいる。

親子は川で遊んでいる。修学旅行生や外国人観光客は飛び石を一歩一歩渡る。シート広げてランチしている人たちもいる。ベンチに腰かけるカップルがいる。橋の下で、サックスを吹いている人がいる。橋の上から、デルタを撮っている人もいる。

 

デルタをあいだにして賀茂川と高野川が流れる。ふたつがあわさって鴨川となる。鴨川から高瀬川、みそそぎ川が分かれて京都を流れる。そしてまた鴨川に戻ってくる。

『パレード』を読み終えた。

鴨川は流れている。ふと鴨川は何を見てきたのだろうかと思った。

「お前には何も与えない。弁解も懺悔も謝罪も、お前にはする権利を与えない」(301頁)

何もいってくれないのが、果てしなく怖かった。何もいえないのが、どうしようもなく苦しかった。

子どもはまだ川で遊んでいた。しかし彼が呼んでも、母親は川に入っていこうとしない。さっきと同じ親子だろうか、疑問が浮かんだ。考えちゃいけないと思った。