白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

信頼のエチュード

鴻上さんの『表現力のレッスン』を読んでいる。 

 

この本は「信頼のエチュード」という演劇のレッスンで始まる。

ふたりで行う。前後に立って、前のひとは目をつぶって後ろに倒れる。後ろのひとは、倒れてくる前のひとを支える。

前のひとの信頼が試されるレッスンだ。前のひとは、後ろを振り返らずに倒れるのだから、支えてくれるひとを信頼しないといけない。

「支えるといったって、もしかしたら、支えてくれないかも」「支えようとしても、体重が重くて、支えきれないかも」「さっき会ったばっかりのひとだし、信じ切れない」

そういう思いを振りきって、えいっと倒れてみること。そうすると、一瞬の浮遊感と恐怖感ののちに、後ろのひとの手が自分を支えてくれる。「ああ、よかった。支えてくれたんだ。信頼してよかったんだ」とほっとする。そして、つぎは自分が支える番だから、と前後を入れ替えてもういちど行う。

これが基本である。

この本は「倒れ込むときに身体のどこが緊張するか」という側面から、「緊張するときの自分の身体を知る」ことを目指す。緊張するときの自分の癖を知ることは、いろんな場面で「あっ今緊張してるな」と気づくことにつながる。気づければ、緊張している場所をほぐすことで、気分が落ち着く。

 

さて、このレッスン。

たぶん、ぼくは苦手だ。なかなか倒れられないだろう。落ちたときを考えて、両腕の関節をゆるめる。首をしっかり固めて、落下の衝撃に備える。お尻をつき出して、落下の痛みを肉で吸収しようとする。それだけ身体をがっちり固めたあとに、「はやく倒れなさい」という命令によって、なるようになれ!と倒れ込む。痛いの嫌だなぁと思いながら、倒れ込んで浮遊する身体を感じる。落下のための体勢を取る。

もうダメだと思った瞬間、後ろのひとの手を感じる。支えられている自分を発見するのだ。

支えてくれてよかったと、ほっとするだけではない。幸福感に包まれる。涙さえ流すかもしれない。

信頼のレッスンだけれど、他人をまったく信頼できない自分に出会う。他人に自分を預ける幸福を知らないから、いつもひとりで生きようとする。傷つくくらいなら、自分でやったほうがましだと他人を警戒しながら生きている。他人に何かを頼もうとしても、見捨てられるのが怖いから、自分ひとりでなんとかしようとする。

身体的な緊張だけではなく、心が強張っているのだ。

常日頃から、過剰に警戒して生きている。

そのコリをほぐすレッスン。

 

このレッスンの感覚は、何かに似ているなと思う。

支えられ、包まれ、安心できる誰か。

ああ、そうか。ベッドに飛び込むときの感覚に近いんだ。

日中の人間関係に疲れきって、「疲れたよー」とかひとり言を言いながら、ベッドに飛び込む。ふんわりとしたスプリングが体重を受けとめてくれる。慣れ親しんだこの感覚。圧倒的な包容力。唯一無二の幸せな瞬間。だって、ぜったいに受けとめてくれるじゃん。自分がどんな状況でも。

そうして、安心に包まれて寝る。

翌朝、ふとんから出られない。もうすこし、もうすこし。外寒いし。講義よりも、布団のあたたかさの方が人生にとって重要じゃん。

こんな生活もあと1年ちょっとなんだ。

三浦しをん『風が強く吹いている』

三浦しをん『風が強く吹いている』(新潮文庫、2006年)。

 

夜中の11時に読みだした。そのまま、深夜3時半まで読んでいた。

普段なら「明日もあるし、ここでやめて寝よう」と手をとめる。しかし本書には、先を読みたいと思わされた。心のままにページをめくっていたら、いつのまにか読み終えていた。ひさしぶりの体験だった。

物語から離れがたい体験。

そういう思いにさせられるものを、一流の物語という。

 

 

文庫にして650頁。分厚い長編である。

しかし物語の世界にぐいっと引きこまれるから、長いとは感じない。むしろ、短いとさえ感じる。

爽快な読後感なのだ。

箱根駅伝の描写が爽快さをもたらしている。250頁/650頁を占める駅伝は、スポーツ特有の「この先どうなるのだろう」という目を離しがたい感覚を与える。

早く先が読みたい。

読者は、こう思う。

ここからが真骨頂である。著者のうまさは、箱根駅伝を、完全に内面から描くことにある。読者は、先の結果を知りたい。が、それ以上に、タスキをつなぐ10人それぞれの心を読みたいと思わされる。

構造的に「結果がどうなるのだろう」と思わせておいて、じつは「内面を味わわせる」のだ。内面を描くだけでは、停滞しがちである。構造を使うことで、スピードを維持したまま、内面を味わわせることに成功している。だからこそ、分厚い本を分厚いと思わせず、爽快な読後感を達成している。

すばらしい。

 

たまたま竹青荘に住んだなりゆきで、駅伝を走ることになった10人。彼らは、ただ走って勝つことを目標にしていない。タイム的に速いことだけを目標にしていない。

じゃあ、何を求めて走るのか。

回答はさまざまになる。そのさまざまを、10人の内面を通して描きだした。

 

「それぞれの走る意味」を主軸においた本書は、箱根駅伝という構造を使った。

箱根駅伝に入るまでの前半部は、ぼくは漫画的だと感じた。コマをパンパン切り換えていって、長距離を説明しながら、主要人物を紹介しながら、いろんなエピソードを挟みながら、目標まで強引にもっていく。空白行さえ入れずに視点が移り変わっているのも、漫画的である。

強引さは否定できない。ぼくは長距離をやっていたから、「そんなうまくいくかよ」みたいなところがある。しかしそれは重要ではない。設定の一部なのだ。強引なくらいの設定のほうが、引きこまれる。夢があるから。

前半部は、漫画で描いたほうがうまくいくかもしれない。でも後半部には、小説でなければ、描きだせない世界がある。その世界に緩やかに移り変わっていくためには、前半部を小説で描く必要があった。漫画的なストーリー進行をしながら、心を丁寧に追っていくことが不可欠だったのだ。そうして箱根駅伝で、読者は10人の心に触れる。

ああ、世界はこんなに豊かだったんだ。

爽快な読後感だけが残る。

芥川龍之介の恋文

芥川龍之介の恋文、やばい。

なんだこれは。

http://weemo.jp/v/f67f657a

こんな恋文をもらったら、好きになってしまう。

たとえ嫌いな相手からもらったとしても、この恋文にはグラッときてしまう。

こころがうつくしい。

罪だよ、芥川さん。

 

もうひとつ見つけた。

http://weemo.jp/v/946b3970

えっ、これもう惚れざるをえないのですが。

一度もあったことないけれど、こういう日本語を書く人になら嫁いでもいいや。

自分を預けてもいいと、決心できる。

 

平安時代の恋は、歌と書が決め手だったと聞く。

なるほど。芥川さんの文章がすばらしい筆で書かれていたら、イチコロだ。

http://www.sankei.com/life/news/171002/lif1710020004-n1.html

手書き原稿を見る。不器用な筆だ。けっしてうまいとは言えない。

でも、この不器用さがいいじゃないか。切実な想いを不器用な筆にのせて伝えようとする。

芥川さんはどういう思いで書いたのかなと考えてみる。悪筆だから読まれるのは恥ずかしいな。あいつのほうが字がうまいから、代わりに書いてもらおうかな。でも、この想いは自分の手で書かなきゃダメだ。字が下手なところも含めて、僕だ。

そう思ったかもしれない。

読み手は、たどたどしく綴られた想いに直接触れる。

不器用ながら、直接的な想い。今風に言えば、ギャップ萌え。

 

ああ、芥川さんは罪な男ですわ。\

フランク・ウイン『フェルメールになれなかった男』

フランク・ウイン(小林頼子・池田みゆき訳)『フェルメールになれなかった男――20世紀最大の贋作事件』(ちくま文庫、2014年)

 

友人からのおすすめ。「芸術家に対して我々が抱く諸々のイメージそのままの繊細かつ傲慢な画家が、自分を置き去りに先に先にと進む時代を恨み、「かつてありえた名画」を生み出すことで復讐する物語なんやで」。140字の推薦文がすばらしい。

すばらしいノンフィクション。とても面白い。原題は”I was Vermeer”。

 

「芸術とは、剽窃か、革命か、そのいずれかだ」(ゴーギャン

 

優れたノンフィクションは、エンタメ的な側面をもつ。

20世紀前半、フェルメールの贋作を作り出して、巨万の富をえた男がいた。名前は、ハン・ファン・メーヘレン。オランダ出身。

本書は、ハンが警察につかまる場面で始まる。ナチスに対しフェルメール作品を売ったことで、国家反逆罪の容疑がかかったのだ。「どこでフェルメール作品を手に入れたのですか?」。警察の問いかけに、ハンは答えない。いや、答えられない。自分で描いたと言えば、画家ではないことを認めてしまう。じゃあ買ったというか。そもそも買ったものではない。

自分こそが描いたのだ。

 

劇的な導入をへて、ハンの人生を追っていく。なぜ絵を志す少年が、贋作をするようになったのか。贋作のための技術をどのように身に付けたのか。作り上げた贋作を、いかにして売りさばいたのか。

ハンは、完璧主義者であった。繊細であるがゆえに、乱れをゆるせない。つねに理想があり、その理想に追いつけない自分にいらだっていた。もっと悪いことに、彼の理想はひとつ前の時代にあった。彼が魂をこめて描いた絵は、同時代の批評家から酷評される。けっして理解されない。

 

「ハンは、批評家のジョージムーアが力説するような、芸術家がまずやっておかねばならない訓練、つまり『どんなにひどい絵を描こうが、他の人ほどひどくなければ、かまうことはない』と考える訓練をしそこなったのだ。ちょっと生まれるのが遅くて、シュルレアリスムと抽象主義の時代に写実を看板にするのだから、自分にはたったひとつの選択肢、贋作者になる道しかない、と彼は悟ったのだ」126頁

 

贋作を作るには、怠け者ではいけない。キャンバスや顔料、溶剤まで完璧に当時のものを再現する必要がある。そのうえで絵を描く。古い時代に描かれたかのように、絵の具に亀裂をいれなくてはならない。贋作と真作を見極めるテストにも、耐えうるようにしなければいけない。考えてみれば、ウン十億の絵画を生み出すのに、生半可な技術や努力でできるわけがないのだ。しかし、彼はやりきった。

かつて、自分を酷評した美術界に、贋作を送りつける。バレるのではないか。いままでの巧妙に積み上げた技術は、一瞬で見抜かれるのではないか。もう生きてはいけないのではないか。追い詰められた彼の心境とは裏腹に、あっけなく「フェルメール作品だ」と判断される。彼は手に入れた金で、酒と薬に溺れながら、次々と贋作を作り続ける。そのうちのひとつを、ナチス幹部に売りつけた。

そうして本書は、警察につかまってからの場面を描きだす。

警察につかまり、牢獄で衰弱した彼は「近年発見されたフェルメール作品は、私による贋作である」と告白する。

しかし、誰も信じない。

「真作だ」と判断してきた美術家や批評家は、容易に自分の失敗を認めない。「彼のたわごとだ」と言いつづける。

結局彼は、法廷の場で、フェルメールの手法で描きだす。全8作品のうち、6作品は贋作であると認められた。しかし、薬とアルコールにむしばまれていた彼は、全盛期の構想と技量を発揮できない。美術界は、残る2作品は真作だと考え続けた。それでも、最終的には贋作だと判断される。

 ※

 

この物語の骨格を抜き出すだけでは、魅力は完全に伝わらない。

この本は、「絵画とは何なのか」という問いを我々につきつけてくる。

批評家が「いい作品だ」と言うから、我々も「いいなぁ」と受け取る。

専門家が「誰々の作品だ」というから、「誰々はいい絵を描くなぁ」と見る。誰々の作品だから、莫大な値がつく。

はたして我々は、何を見ているのか。なまの絵を見ていないのではないか。

 

 

下のメモにあるような洞察が、ところどころで挟みこまれる。この洞察こそが、本書を味わい深いものとしている。

人間は絵をどのように見ているのか。絵の価値は誰が決めているのか。絵とは何なのか。人間とはどれだけ欲深い生き物なのか。

贋作と真作のはざまで、人間の欲望がうねる。

おもしろい。

 

メモ

「心で感じるがまま描くようにとおっしゃったので……」

「確かにそう言った。でも、それは知性によって制御されなければならないんだ、感情の赴くままではダメだ。君が自分の感情を支配するのだ」57頁

 

「あなたは罪な人だ。僕は画家だが、あなたのことだけはどうしてもうまく描けない」73頁

 

「批評家たちは、長い間温められてきた考えを具現する絵を発見するという考えに抗えなかったのだろう。贋作者は、批評家たちのそうした根深い願望の蓋を取り外し、それを実現しさえすればよかった」172頁

 

テレジア「人は、答えのない祈りより、答えのあった祈りの方にこそ多くの嘆きの涙を流す」

ジャン・バージャー「本物だ。だから美しい」