吉田秋生『吉祥天女』
「時に なんて敏感に 気配を感じ取る 人間がいることか」
むかし、友人の家で映画を見た。ホラー好きの人だった。何を見ようかとツタヤで相談する。「おすすめのホラーで」と言ったら、その人は「これは基本だから一緒に見よう」とひとつのDVDを抜き出した。「短編集だから、いろんな怖さを味わえるよ」。題名は覚えていない。
真夜中に再生ボタンを押した。どの短編も、それなりの怖さがある。贅沢なことに、それぞれの話が終わってエンドロールが流れるあいだ、友人による作品解説がなされる。
ある印象的な作品があった。普通の人間が、おかしな人間と接さざるを得なくなって、いつのまにか狂ってしまう、という話だった。率直な感想をいえば、「どこがホラーなんだろう」と思った。人間が発狂しただけじゃないか。夜中で眠かったし、露骨な不満を醸しだしていたかもしれない。否定的な雰囲気を感じ取ったのだろう。エンドロールが流れると、友人が解説を始めた。
「人間がほんとうに怖さを感じるのって、なんだと思う? 血のりがついたゾンビ? 首の長い女? それとも、夜中の学校トイレから聞こえてくる声?
人間が怖さを感じるのは、理解できない他者の心なんだよ。異質な他者の普通じゃない言動にこそ、恐怖を感じる。その恐怖が積もりに積もると、狂ってしまう。狂ってしまうほど、怖いんだ」
納得できるようで、納得できない話だった。「ほーん。なるほどね」。適当に返事をして、つぎの作品を見た。
語り手は男子高校生。その高校に、ある女子学生が転校してくる。冷たい美貌をもつ女子学生にちょっかいをだす男どもは、残忍な方法によって撃退される。そのうち死人が出始める。しかし、女子学生がやったという決定的な証拠はない。なぜなら彼女は直接手を下さず、心を的確に攻撃していくからである。心を追いやって、自殺や他殺に追い込んでいく。そしてそれらの行為に何の罪悪感もない。
こんなことをしていても、普通の人間は女子学生の本性に気づかない。「被害者だよね。周りで死んでいくの不思議だね」。語り手は、違和感に気づくも殺される。
ある美大生に「モデルになってほしいんだ」と言われて、最後、女子学生は完成された絵を受け取る。そこに描かれていたのは、美しい女性の姿ではなく、恐ろしい吉祥天女だった。美大生は、人間の中身を描きだしたのである。
怖い。怖い。怖い。ゾワっと総毛だって、毛穴から恐怖がしみわたってくる。いちどしみついたら、もう落ちない。
異質な他者の怖さに、直接触れられる。繰り返して言うが、彼女が殺人をするから怖いのではない。彼女の言動と心が、普通の人間とはまったく違うから怖いのだ。そんな人間が身近にいながら、大多数の人間は、その中身に気づけないから怖いのだ。
伊坂幸太郎『砂漠』
「大学生活を変えた本。おすすめ」とのことだった。「伊坂さんのなかでは異色なんだけど」
本の感想を書くとき、巻末の解説を先に見る。誰かが書いているのと同じことを書いてもしょうがないからだ。ネットは見ない、めんどうだから。
その意味で、解説の吉田伸子さんと同じ感想を抱いてしまった。西嶋サイコー。無意味な大学生活サイコー。無意味の積み重ねで、人生を生きぬく根っこが育つんですよね。「人間にとって最大の贅沢は、人間関係における贅沢のことである」。間違いない。言いたいことは、これでぜんぶ。さすが吉田さんです。何も書くことがなくなってしまった。これでおしまい。
なんてことは、まるでない。
適度に力の抜けた文体がクセになる。
こうなったらおもしろいなという文章を書いておいて、「なんてことは、まるでない」とはしごを外す。とくに冒頭の「春」はそんな感じで、適当に緩く進む。「面倒くさいことや、つまらなそうなことの説明は省くつもりなので、結果的に、鳥井たちに関連した出来事が中心になるのも事実だ」(75頁)なんて言いながら。
盛り上げて、落とす。盛り上げて、落とす。リズムに乗せられて、心地よく感じる。
何かが起こりそうで、起こらない。青春ってそんなものだろう。
けれど。
起こらないと思っていると、起こるのだ。
心地よいリズムのなかに、いきなり事件が発生する。ヒリヒリした緊張感、どうするんだという切迫感、親友が傷つけられているのに何もできないもどかしさ・・・・・・。普段を緩く描いているからこそ、落差が激しい。心が動かされる。「夏」の章には、心をえぐられて、でも最後にはほっとさせられた。すこし泣いた。
うまいなぁと思う。
もうひとつ。
西嶋はすばらしい。ああいう人間には憧れる。「ですます」調でしゃべるのも好き。だからこそ吉田さんも言及している。ほとんどのネット感想も触れているんじゃないかな。それぞれの変化と成長、みたいな一般論に落としこんでいなければ。
みんなと一緒も癪なので、東堂さんの魅力について語ろうではないか。
整った顔に変化の乏しい表情。周りからのアプローチはバッサリ退け、しかし好きな相手には接点をもとうとする。西嶋に告白して振られてから(西嶋が振るのがかっこいい!)は、いろんな男とつき合う。しかし、どれも短期で最後は西嶋とつながる(結局、西嶋も人間だったのだ)。
冷たい表情と毅然とした態度で外には見せないけれど、内にはしっかりと人間味がある、芯のある人間。「このひとは世界をどうみているのだろう」と気になる。
尾頭課長補佐に似ている。庵野監督は『砂漠』を読んで、彼女の性格を造形したのかもしれない。
なんてことはまるでない、はずだ。
京大の学園祭
――いったい子供は、「絵」を描いているのだろうか。「絵」ではないのだ。自分の若々しい命をそこにぶちまけている(岡本太郎『自分の中に毒を持て』、123頁)
京大は学園祭の時期である。
11月23日から26日までの4日間。
直接の会場ではないはずの院棟周辺にも、ひとがたくさんいる。最寄駅からの通り道に位置しているからだ。
あふれる人波を自転車で通り抜けようとして失敗する。自転車を降りて、ゆっくり歩く。楓が赤く色づいているのを発見する。歩く人たちは、どこか高揚している。コートの前を開けてシュッとした雰囲気の人よりも、ジャンパーに身をくるんでもさっとしている人たちのほうが多い。それだけ寒いのだろう。もしくは、ファッションに関心がないか。後者のほうかもしれない。お父さん世代の人たちが多い。
慶應の学園祭と比べて若い人たちは少ない。垢ぬけた雰囲気の人は、もっと少ない。
「三田祭は、すこし苦手だったな」
そんなふうに思いながら、自転車をとめた。学祭を回る。
4日間唯一の平日。人が少ないときを狙って。
校舎のなかまで響いてくるバンドの演奏。出店から漂う食べものの匂い。「○○どうですか」と声をかけてくる大学生。
こういうのは大抵どこも同じ。学祭だなぁと懐かしい。
とりあえずのお目当ては、『蒼鴉城』を買うこと。京大の推理小説研究会の部誌だ。綾辻行人さんや法月綸太郎さんが所属していたサークル、と言えばわかるだろうか。日本でもっとも有名な推研だ。40号の記念誌を買った。彼らの寄稿もある。昔からこういうサークルは応援したくなる。何かを作り出すのって神秘じゃないですか。
話は変わるが、院の知り合いも所属している。古き良き京大生の例にもれなく、彼も講義をサボり続けている。彼の名前を部誌の後ろで見つけた。
ぶらぶら歩く。
古本市がある。よい状態の『ノラガミ』1-17巻が1000円。破格だ。買った。
陶芸部が作品を売っていた。波の形をしたカップが売られていた。釉薬の色も良い。買った。
クジャク同好会なる怪しげな団体が、クジャクを2匹展示している。「飼育にお金がかかります! 募金お願いします」。そう言われちゃ、応援するよね。クジャクの卵の殻やクジャクの羽も売られている。鈴虫飼育セットも一緒に売っている。なんでもアリやなぁと楽しくなってくる。HPを見ると、どうやら田中神社のクジャクも、この同好会出身らしいhttp://www.kupeacock.com/?p=1841。あれは見事だった。
校舎のなかでは、吹き抜けを使って、自作UFOキャッチャーをやっている人たちがいた。1メートル四方はある大きなUFOが、うぃーんと動くのだ。人間の胴体くらいのスティッチたちがビニールにくるまって、転落防止ネットに転がっている。UFOでぬいぐるみたちを救いだすミッションなのかもしれない。
正門前のどでかい看板には、女の子の絵が描かれていて、「美少女戦士! 森鴎外!!」と書かれている。おもわず吹きだす。
写真部の作品のひとつに、「京大生の敵」と題して、自転車撤去作業トラックが写っている。歩行者の邪魔にならないように整然と美しく路駐された自転車たちを、問答無用に撤去していくトラックだ。森見さんの『四畳半神話大系』を読むと、いかに暴虐非道の行いかがわかる。これは本当に敵だ。ぼくも愛車をやられて、2300円が飛んでいった。乱暴に扱われたのか、チェーンが緩んでいた。許せん。
学生だけではなく、フリマをしているおじさんおばさんたちもいた。いろんな人を包みこむ雰囲気がある。
回りながら、慶應と比べて、なんで京大の学祭は居心地がいいのか考えていた。
なまの人間を感じたからだ。
「自分の若々しい命をそこにぶちまけている」やつらがたくさんいて、そういう存在がふつうに受け入れられている場所だからだ。それはバンドやダンスだけではない。推研もクジャク同好会もUFOキャッチャーも美少女戦士森鴎外も、みんな自分という存在を精いっぱい表現している。
お祭りだからそういう側面はどの大学にもある。慶應にもあった。しかしどこか、一定の枠を感じていた。窮屈だった。たとえば服装や化粧をとっても、三田祭では参加者にそれなりの要求がある。重武装をしないと、あきらかに浮いてしまうのだ。洗練されていないと、受け入れられない雰囲気がある(もちろん僕だけかもしれない。だが、僕がそう感じていたという事実が、僕にとっては重要になる)。
京大にも制限はある。けれど、何やってもいいんだ、という共通理解があたりまえに存在している。いろんな人間が身近にいても、普通に受け入れられる。
自分をそのまま出してもいいんだ。
そういう青くさい願望と衝動を見ている気がした。とても居心地がよい空間だった。
久保ミツロウ『モテキ』と古谷実『シガテラ』
思春期において、自意識とのつき合いかたは、かなり重要な位置を占める。
自意識がないのは人間的にどうかと思うし、逆に自意識に振り回されても、人生は先に進まない。思春期を通して、ちょうどいい自意識との付き合いかたを見つけるのだと思う。だから、思春期にはありえないほどの失敗が続く。思春期を終えても、思いだすたび「ギャー」と叫びたくなるし、誰かに「おまえ、あのとき○○だったよな」とか言われると、恥ずかしくて家に帰りたくなる。そうやってひとは成長していく。
その自意識が、もっとも顕著にあらわれるのはいつか。
たとえば、桃栗みかん『群青にサイレン』では、「逃れられない他者と自分を比べたとき」だと言う。あいつはうまく行ってるのに、なんで俺はダメなんだ。理想と現実の乖離。挫折して、嫉妬して、自己嫌悪して、絶望して……たしかに、肥大化した自意識に振り回される典型例だ。
しかし、自意識がもっとも試されるのは、「はじめて好きな相手と向き合ったとき」なのではないか。多くの人間にとって異性である。
その点で、『モテキ』と『シガテラ』は同じ対象のふたつの側面を扱ったものだといえる。
『モテキ』は、ある男がとつぜん4人の女性から連絡を受ける場面から始まる。「もしかしてあの子たちは、僕のことが好きなんじゃないか」。男は、相手の言動を深読みしつづけ、モテキが来た!のだと思い込む。4人のあいだでイロイロ思い悩みながら、しかし自分から行動できない。肥大化した自意識は、自分のことだけを考えて、傷つくことを極度に恐れる。結局だれともつきあわないが、自意識を制御しながら、周りとうまく関係していこうという気づきで終わる。
『シガテラ』は逆に、女性とつき合うところから始まる。いじめを受け、性への鬱屈した感情をもてあましていた冴えない男子高校生は、「あのひと、君のこと好きなんだって。話してあげてよ」、という言葉をかけられる。しかし、自分からは何も動けない。思考だけが爆発しつづける。結局、あいてからの告白でつき合う。自分を受け入れていない彼は、つき合ってからも、自分の都合だけで暴走しつづける。「好きだよ」と言ってくれた相手を見ていないのだ。そうして、さまざまな事件に巻き込まれながら、欲望を出しまくる。最後に社会人になって振り返ると、「ああいうときもあったな」と成長を実感する。
こういう漫画を、自意識爆走系漫画と呼ぶ(白くま命名)。『モテキ』はつきあう以前の自意識を扱った。『シガテラ』はつきあってからの自意識を扱った。自意識の表と裏の側面である。
読んでいるだけで恥ずかしくなる。なぜなら、自分にも経験があるから。漫画のエピソードを読みながら、自分の失敗談を思いだしてしまうのだ。
自意識が肥大化したとき、その世界には、自分しかいない。「傷つくのは嫌だな」「なんであのひとはこう言ったのだろう」「こんなダメな自分なのに」「ああ、絶対に嫌われた」「もうぜんぶどうなってもいいや」「引きこもりたい」。自分のなかだけで完結する、どす黒い感情の渦。
他人と向き合う前に、自分と向き合えよと言いたくなる。
それでも、そんなやつにもかかわってくれる人間はいる。そういう人間のうち、もっとも未知で、もっとも遠く、もっとも向きあわないといけないのが、好きな相手だ。
好きな相手とかかわるときに、肥大化した自意識は爆走しつづける。周りはその迷惑を受けつづける。自分も周りも疲弊する。若くて元気なときにしか、克服が難しい病だ。
自意識爆走人間は、いつか気づく。
あ、自分のなかだけで生きていたな。周りのことを見ていなかったな。なんて自分はちっぽけな人間だったのだろう。周りはよく一緒にいてくれたな。ほんとうに、ありがとう。さようなら。