白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

孤独と愛のおしまい。そしてこれから。

昔からの読者は知ってのとおり、このブログは孤独と愛をテーマのひとつにしている。

 

ぼくは昨年3月に親友を亡くした。

エッセー、あるいはある人のこと - 白くま生態観察記

 

それからずっと、さみしくてたまらなかった。京都に来てからも、毎日毎日、涙があふれてきた。気が狂うほどさみしくて、自分がこんなにさみしがりな人間だと初めて気づいた。驚いた。文章にすることで自分を保とうとした。できあがった文章の多くはとても公開できない。

どうしようもなくさみしくて、誰ともつながりたくなかった。大学院では基本的に孤独を保った。でも逆説的に、誰かと深くつながりたかった。このさみしさをわかってもらいたかった。共有できると思った。

 

去年~今年2月のブログを見ると、あきらかに病んでいる。表面的には大丈夫なように見えるかもしれない。しかし確実にさみしさが根底にひそんでいた。誰とも共有できないさみしさをブログに託して、ひとりで泣いていた。

さまざまな物語の感想を書いているようで、さみしさから救ってくれるものばかりを探していた。人生初のさみしさを理解するのに資する本、さみしさから救いだしてくれる漫画、愛で満たしてくれる映画。そういうものを吸収しつづけて、ブログに吐き出しつづけた。

 

最初に読んだ本は福永武彦『愛の試み』で、いま読み終わった本はエーリッヒ・フロム『愛するということ』である。

福永は孤独なひとで、孤独を中心に愛の理論を固めた。去年のさみしかったぼくは、福永さんとシンクロしていた。孤独だから、孤独を埋めてくれる誰かを求めていた。誰かに救ってほしかった。

フロムはなんというか普通のひとで、純粋に愛の理論を固めた。孤立した人間は誰かとつながる愛を求める、という出発点は一緒だけれど、孤立に価値を置いていない。あくまで孤立も愛も等価値な概念である。

 

ふたりの違いは、自分のことを愛しているか否かにあると思う。福永さんは自分のことを愛しておらず、フロムは自分のことを愛している。

で、ぼくは、一時的に福永さんにシンクロしたけれど、フロムのほうが正しいと感じる。より自然にひとを愛せているのは、フロムである。フロムになりたい。

 

こう思えるのは、ようやく、親友が亡くなった傷が埋まってきたからだろう。

強烈なさみしさが過ぎ去った。

 

さみしさを初体験したと言った。

ぼくは感情を押しこめるほうで、感情というものは、抑圧しつづけると麻痺してくる。麻痺した感情は意識上では感じないけれど、無意識下では着実に積み重なっていって、いつか決壊する。

その瞬間がここ数年で3回くらいあって、親友の死は、さみしさセンサーを決壊させた。さみしさを感じない人間だから誰にも恋をしないのかもしれない、と思っていたぼくにとって、さみしさを感じたことは天祐だった。ふつうの人間なんだと安心した。

安心したのはいいけれど、初めてのさみしさをコントロールできなくて、去年のブログは異常にさみしいものになっている。ごめんなさい。

それでも読み続けてくれた人には、感謝! 愛をささげます! だいすきです!

 

んで、いまフロムを読めるということは、たぶん、さみしさをコントロールできるようになってきたのだと思う。フロムの本は正直、あたりまえの描写の連続で、ぼくが愛について書くならこう書くだろうなーという感じだった。読んだそばから頭に入ってきた。

そろそろ、つぎの段階にいかないと。さみしさにひたって、愛を探しもとめる日々はおしまい。今後ともよろしくおねがします。今年中には、何か発表できるんじゃないかな。できたらいいな。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳版(紀伊国屋書店、1991年)

エーリッヒ・フロム(鈴木晶)『愛するということ』新訳版(紀伊国屋書店、1991年)

 

超短文要約

愛は世界にたいする能動的な態度・人格である。

 

――ざっくり内容紹介

 

この本は「愛は技術だろうか」という衝撃的なことばで始まる(第1章)。

フロムによると、多くの人は愛に飢えているけれど、愛について真剣に学ぼうとしていない。その根底には、愛についての三つの誤解がある。

①愛を、愛することではなく、愛されることの問題として捉えていること

②愛を、対象の問題であって、自らの能力の問題ではないと考えていること

③恋に落ちる体験と、愛にとどまっている状態を混同していること(falling in loveとstanding in love)

これらの間違いを指摘しながら、「愛とは、愛する技術の問題である」とフロムは言っている。

 

ところで「愛は技術である」の技術とは、どういう意味だろうか。たんなるテクニックなのだろうか。原典を確認すると、最初の一文はこう始まる。

 

IS LOVE an art?  Then it requires knowledge and effort.

――愛とはアートだろうか。そうだとすれば、知識と努力が必要である。

 

この問いかけにたいする答えは、もちろんYes である。しかしここに大きな問題が潜んでいる。artは何を意味するか、という問題である。アートは、単なる技術以上の意味をもつからだ。

Artには複数の重要な意味がある。すぐ思いつく絵画、芸術のような意味のほかに、liberal artsのような人文科学を示す意味もある。今回は、「技術」・わざという意味で用いられている。

ただし、この意味でのアートは、誰がやっても同じ結果になる画一的な技術ではなくて、むしろその人の個性がにじみ出ている人間臭い「技術」である。

たとえば絵画を描くさいには、絵画理論や画材について学ぶだけではなくて、実際に描いていくなかで得ていく経験も重要である。そうした理論(知識)と経験が混ざりあって、その人だけの方法論ができあがる。そうした技能をアートと呼ぶ。経験だけでもないし、知識だけでもない。相互に浸透しあった「技術」である。

この場合、技術と訳したら、アートのニュアンスが抜け落ちてしまう。だから多くの訳者は技術と訳さない。文脈に即して、わざとか、術(すべ)とか、技芸とか、訳し分けるひとがほとんどである。

この本の文脈では、アートは態度attitudeや人格characterを意味している。単なる技術ではないのだ。

 

本書の素晴らしい点は、愛を適切に身につけた人間が、どのような状態になるかを明確に示していることである。けっきょくのところ、愛と人格の成熟は切り離せない(第4章、第2章)。

 

「愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである」76頁

「一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ」77頁

 

つまり、愛とは自らの態度・人格である。この世にたいする能動的なありかたこそ愛なのだ。

具体的には、自分が自分であることを受け入れて、他者が他者であることを受け入れる。自分の可能性を信じて、他者の可能性も信じる。自分が傷つくのを過度に恐れず、自分そのものを他者に与えることができる。相手に依存したり見返りを要求したりすることはない。自分だけの世界に閉じこもらない。他人への配慮を忘れず、他者に誠実に応答する責任をもつこと。他者が他者であることを尊敬し、その他者の内面を知ろうとすること。

そういうのをひっくるめた態度や人格の到達点が、愛である。

 

ただし、上に羅列したような要素をそのまま実践しても、愛にはならない。愛とは態度や人格であり、個別のテクニックではないからである。だから、習練が必要なのだ。

愛のアートを身につけるために必要な修練として、以下のものがあげられている(第4章)*。自律、集中、忍耐、最大の関心。愛について最大の関心をもって、忍耐強く、自律しながら、習得に向けて集中し自分に敏感になること。

それに加えて、とくにナルシシズムの克服と信念と勇気が必要である。自己中心的な世界の解釈から外れて、自らの愛を信じ、他人の可能性を信じること。そして、愛する行為に自分をゆだねる勇気をもつこと。時間がかかる道程である。

自らを習練することで、愛する態度・人格(アート)を身につける。そのための本である。

 

*:ただし、この部分は要約に適さない。諦めた。ぜひ本を手にとって、読んでみてほしい。

 

感想

ああ、これでよかったんだ、とほっとする内容だった。ぼくがここ数年ずっとやってきたことを肯定してもらった感じがした。

おそらく、ぼくがまだ出来ていないのは「自分を愛する」ことだな……愛って難しいわ。

 

読んだ手順

・世界観を説明している本である。

・わかるひとはわかるし、わからないひとはわからない類の本。

・そして、わかるひとにとっては、当たり前すぎてまとめにくいタイプの本。こういうのを書けるひとは尊敬する。

・わからないひとは、ポイントを読み取れないまとめをしてしまう。

・『愛することについて』の要約・まとめがwebに散見されるけれど、「愛は技術である」と喧伝するものは、まったくの誤読である。「愛は態度・人格である」もしくは「愛はアートである」と要約するひとを信じるべき。

・愛の理論や愛の中身は重要ではなく、愛のアートを身につけた人間がどう世界を見ているかが重要である。愛のアートを身につけた人は、自然と愛を体現するからである。

・逆に、愛のアートを身につけない人が、愛の中身や理論を実践したところで、愛の形をした別物になってしまう。

・このパラドックスを読み取れるひとなら、1500字程度の要約では、第2章を中心にしない。第4章を中心にする。アートとしての愛が表現されている部分を抜き出して、その修練の方法を抜き出すのが1500字要約の仕事になる。

・ただ、修練の方法こそアートの本質に属するから、要約には適さない。うまい言いかたがあったら教えてほしい(このブログの居合カテゴリは、アートの習練方法を書きだしている)

・(某後輩に向けて):こんなふうに読むのが「能動的に読む」ということです。

・能動的に読む、というのもアートだから短く説明しにくい。やって見せるのが唯一かな。

・まとめは苦手です。自己採点するなら60点くらいかな。

福永武彦『愛の試み』再読

 このブログでは、福永武彦をもとにして愛を考えてきた。

 

去年、すでに三冊を取り上げた。どれも拙くて福永さんを読んだことある人にしか伝わらないので、リンクは貼らない。

いくら拙いとはいっても、『愛の試み』を取り上げた回は酷すぎた。本を理解する気がまったく感じられない。脳みそを使って読んでいなかったことが、本文からありありと見てとれる。

今回再読して、彼の世界を捉えた気がする。同時に欠点にも気づいた。

 

――要約

 

人間の内なる世界には、孤独や愛がある。

人間は、原理的に孤独である。孤独であるからこそ、孤独を包んでくれる存在を求める。その存在は最初、普遍的な愛をくれる存在である。しかし成長すると、孤独は自分だけの特殊な愛を求めだす。そのとき孤独は特定の個人を渇望する。その渇望は、独占欲や所有欲として表れる。いったい何を所有したいと思うのか。相手そのものである。

さて、自分の孤独と向き合ったとき、孤独は特定の誰かを指し示すと同時に、その誰かも、孤独を抱えた存在であることに気づく。

自分の孤独が求める相手もまた、孤独の存在である。

そのときに転回が起こる。相手そのものを独占したい・所有したいということは、相手の孤独をも所有することである。所有するという意味は、相手の孤独を自分で包みこむことを言う。孤独は原理的なものであるから、誰にも癒やすことはできない。孤独を包みこむということは、孤独を癒やすことではない。相手の孤独を受けとめる決意である。

そこでは、もはや自分の孤独を包んでほしいという渇望はなく、相手の孤独を包みたいという情熱に変わる。愛されたいのではなく、愛したい。その利他的な愛に全身を投企すること、これが愛の試みである。

孤独の渇望から生まれた「他者を所有したい」という気もちは、「他者の孤独を包みこみたい」という愛に変わる。利己的な意識に動機づけられて、純粋な利他性を示すのである。

孤独に動機づけられて、愛は一層に燃え上がる。その愛はもはや情熱と言ったほうが正しい。

しかし情熱に身を委ねることは、愛ではない。人間は、原理的に孤独なのだ。孤独を忘れた瞬間に、愛は出発点を失って弱いものになる。情熱だけがあるからこそ、逆説的に弱くなる。

孤独と愛のバランス。孤独を充実させて強くすればするほど、愛は強くなる。確固とした基盤ができるからである。そうした愛を試みていくことは、同時に自分の孤独を一層充実させていく。相互に愛の試みを行うことこそ、ふたりに調和が生まれる。相互に相手の孤独を包みこむのだ。

 

だいたいのところ、こういう世界観である。福永さんは、ひとつの世界を構築したと思う。レトリックもいいし、すばらしい。

4月のぼくは、この言わば「孤独の相互所有」に向けて、自分の孤独に向き合い、愛を試みようと思っていた。それが愛するということであり、結果的に(結果的に、ということが重要)自分も救われると思っていた。

 

でも、どうも違う気がするのだ。

それは、たぶん、ぼく自身がいままでの人生で「このひとしかいない」と渇望するような相手をもったことがないからである。福永さんにとって愛は情熱のひとつの表れであるけれど、ぼくにとって愛は情熱の要素をもたない。本やドラマや友人に、情熱的な愛をする人はいるが、ぼくは違う。

福永さんは「孤独をほんとうに見つめていないからだ」と反論するかもしれないが、ここ2年間、自分のなかを見つめつづけてきた結果、特定の個人を渇望するような性質は自分のなかにはない。それはたぶん、ぼく自身のゆがみかもしれない。自分がゆがんでいるのか周りがゆがんでいるのかはわからないけれど、ぼくはそういう人間である。

 

この疑問は、エーリッヒ・フロム『愛するということ』で完全に解けた。福永さんは、あまりにも孤独を重視しすぎた。それは愛に救いを求めたことの裏返しである。彼は、人間的に成熟していなかった。

1年半にわたった「愛」をめぐる旅は、次回でいったん終わりです。

 

名言集

「自己の孤独を無視して相手のことばかり考えている人間は、結局は相手の孤独をも無視しているわけである」「真の愛が目覚める場合、そこに起こるのは彼の内部の凝視である」40頁

「彼に必要なものは、他者からの愛によって砂漠を潤すことではなく、砂漠を砂漠として認識しつつ他者への愛の中に自己を投企することである」41頁

「孤独を意識する時に、僕らは必然的に愛を求め、愛によって渇きを潤そうとする。人は愛にあってもなお孤独であるし、愛がある故に一層孤独なこともある。しかし最も恐るべきなのは、愛のない孤独であり、それは一つの砂漠というにすぎぬ」19頁

「自己の孤独を恐れるが故に、相手の孤独によってそれを豊かにし、自己の内部のううは苦を埋めたいと願うのだ」54頁

「愛は他者のためのものであって、決して自己の孤独を埋めるためのものではない」61頁

「愛の効果は、相手の魂を所有したいというこの熱狂と、自己の孤独を認識するこの理知との、その両者に公平に懸かっているのだ。決してその何れかに偏することはない。そして人が自己の孤独に気づく機会が、逆境にあったり、苦しみを感じたり、死を予感したりする悲劇的な瞬間ばかりでなく、愛するというこの積極的な行為の瞬間にもあるというのは、実は大いに悦ぶべきことなのだ。なぜなら、彼は自己の孤独に思いあたるが故に、愛する対象の持つ孤独についても同時に考え及ぶ筈なのだし、自己の傷を癒す前に、まず相手の孤独を癒してやろうと考えることが、愛を非利己的なものに高めて行く筈なのだから」 (「持続」)

好きな人に告白する言葉を教えて

「好きな人に告白する言葉を教えて」という質問に対して、永六輔さんが答える。

とっても素晴らしくて、永六輔さんを好きになってしまう。

 

この回答が素晴らしい理由は、おおきくふたつある。

ひとつには、相手の視点を導入してあげていること。好きという感情をどう伝えるかではなくて、相手がドキンとする瞬間を教えてあげている。とかく自分中心になってしまいがちな恋愛ごとで、「相手の視点にたってみようね」とやさしく語りかけている。相手の視点にたつと、「あなたが好きです」というのは最悪な言葉になる。だってそれは、自分の想いを直接伝えているだけなのだから。そういう押しつけはあんまり効果がない。どこまで言っても自分の言葉なのだ。

ふたつめは、言葉そのものよりも、言葉のもととなる感情を共有することが重要なんだよと言っていること。自分ひとりの言葉よりも、ふたりっきりで、同じものに感動する。そういう時間を過ごしているうち、心にわきあがる言葉が重なってくる瞬間がある。それをふたりで体験するのが重要なんだよ、と言っている。言葉でどうこうするよりも、心を一緒にしたほうが「あ、いい人だな」と思われるんだよ。あのね、心を一緒にすることがほんとうに重要なんだよ、難しいけど。

 

永六輔さんは小学6年生にわかるとは思っていないだろう。いつかわかってくれればいいなぁと思っているはずだ。なのに、これだけきれいな言葉で、これだけわかりやすく、これだけ本気で答えている。好きだなぁと思う。

 

ずっと、恋人たちが映画館に行くのを疑問に思っていた。

ぼくにとって映画は、自分ひとりで見るものだからだ。隣に人がいたら映画を楽しめないし、見終わったあとの余韻も楽しめない。気になる相手だったら、なおさら緊張して映画に集中できない。映画を見に行っているのに、映画を見られないじゃないか。

けれど違った。

恋人たちは、映画を楽しむんじゃなくて、同じ空間で同じものを体験することを目的にしていた。ふたりで過ごす時間そのものが、とても愛おしい。恋人たちは、ふたりの時間を共有していくことが何よりも重要だとわかっていたのだ。