自分だけを見ていた
彼女は、テニス部に入っていた。部活のある日には、ヨネックスのあの大きなバッグを背負って予備校に来ていた。
テニスは高級なスポーツの感じがした。イギリスの上流階級がやるもの、みたいなイメージがあった。ぼくの高校でもかっこいいやつだけがテニスをやっていて、そういうやつには男子校なのに彼女がいた。かっこいいか、かわいい人たちがやるスポーツだと思っていた。キラキラした雰囲気がつきまとう。
その子はいつも笑っていて、輪の中心にいた。塾の休み時間に笑いが沸き起こるとき、そのなかでとびりきり笑っていたのは彼女だった。話していると、みんな楽しい気分になった。幸せの感情を擬人化したらこういう人になるんだろうなと思った。。
この人は青空のしたでテニスする人なんだ。ぼくとは住む世界が違う。内向的で、自分に自信がもてず、いつも自己嫌悪に陥る。アニメや本を趣味にして閉じこもってるようなぼくとは人種が違う。
そうやって、自分だけの価値観で世界を測っていた。
※
その後、その子と予備校で会って一緒に帰った。前回ぶちまけた謝罪をしないといけないと思ったのだ。
「こないだはごめん。ただ帰り道が一緒なだけなのに、愚痴聞いてもらって。取り乱した。ほんとにごめん。でも救われた。これでも食べてよ」
ぼくは地元で買ったお土産を渡した。
彼女は「別にいいんだよ」と言った。受け取ろうとして伸ばした手を、途中でとめた。「いま食べちゃわない?」
「そうだね」。ぼくたちは、このまえと同じベンチに座った。
ふたりで『彩菓の宝石』というゼリー菓子を食べた。おいしいねとか言いながら、気まずい時間を過ごした。こういうときに何をどう話せばいいのか、わからない。人生経験が足りなかった。
このまえは言葉にならなかったんだけど、と彼女が切りだした。
「わたしも、後輩にレギュラー奪われたとき、ずっと沈んでた。小学校からテニスやってて、ずっとレギュラーだったのに、後輩に奪われちゃってさ。テニスする気がなくなった。一気にぷつんと切れたんだよね。背も低くて力もないけど、なんとか頑張ってきたのに。
そういうのって、人にみせられないじゃん。いつも元気な自分で通ってるのにさ。こういうの見せて、他人に嫌われるのが怖い。臆病なんだよ。いつも不安。親も『受験勉強しろ』って言ってくるし、お姉ちゃんがいい大学入ったからプレッシャーがすごいんだよね。なんかもうウワーってなっちゃうときがある。
だからさ、人間ってそんなもんなんだよ。気にしなくていいよ」
※
ぼくはとても驚いた。怖かったり不安だったり臆病だったり。その子のイメージとは、まったく違った。
「そんなふうには見えなかった。なんかいつも元気だし」。正直に言った。
「あのね、わたし、引きこもるタイプなんだよ。3日間部屋に閉じこもったりするのよくあるんだよ。テニスばっかりやってるわけじゃないし」と彼女が疲れた顔で笑った。
はっとした。
普段見ているその人は、元気で、よく笑って、みんなの中心にいるような人だった。不安に押しつぶされたりしないし、暗い感情なんて抱かないんだろうな、と思っていた。ぼくとは正反対に見えた。
でも違った。彼女が見えてなかっただけだ。見ようともしてこなかった。自分が精一杯の時期に出会ったから女神のように思えただけで、ほんとうは普通の人間だった。不安に押しつぶされそうになったり部屋で鬱々としている、同じ人間なんだと気づいた。すこし考えればあたりまえだった。けれど想像もできなかった。ぼくの世界にはぼくしかいなくて、誰も世界の内側にいなかったのだ。
そう気づいた瞬間に、いままであった壁みたいなものが崩れ落ちた。目の前にいる女の子を、ひとりの人間として見つめられた。疑問が湧いてきた。このひとはほんとうはどういう人なんだろう。どういう目で世界をみているんだろう。さみしげな笑い方を見たのは初めてで、かわいいなと思った。もっと一緒にいたいな。
「こんど遊びに行かない?」
気づいたら言葉が出ていた。
彼女は息を呑んで、笑った。「いいよ」
(続く、かもしれません)