三秋縋「明日世界が終わるなら」
三秋縋さんのツイッターをたまに見る。
そのなかで記憶にあるのが、
「明日世界が終わるなら何をする?」と聞かれたときに、
「会いたい人に会いに行く」と答えるのではなくて、
「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれないから、結局何もせずに過ごすと思う」と答える人が好きです。
というもの。
いまツイッター検索しても見当たらないので、完全に記憶に頼っている。細部は違うかもしれないが、おおかた変わらないだろう。
とても衝撃を受けた。
美しい。そして悲しい。
「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」
こう答える人は、実は幸せな人である。
なぜなら、この人には会いたい人がいるのだ。世界最後の日に、どうしても会いたい人がいる。幸せ以外の何物でもない。
しかし、幸せであるはずの人は、幸せにはなれない。
「会いたい人の会いたい人は私じゃないかもしれない」
相手の幸せを考えてしまう。もしかしたら、あの人は私に会いたくないかもしれない。ほかの人と最後の日を過ごしたいかもしれない。
そう考えたとき、自分から会いに行く選択肢は消えてしまう。
会いたい人がいるのに、会いたい人の幸せを考えると、会いに行けない。
なんという悲哀か。
こういう人には
「相手の考えなんて自分にはわからないものだから、とにかく会いに行ってみなよ」
とか
「直接聞いてみればいいじゃない」
とか
そういう助言は意味のないものとなる。そんなこと、すべて承知の上なのだ。
承知した上で、答えている。
美しく、悲しい。
たった140字に、これだけの物語を込められるのは、本当にすごいと思う。
――付けたし
こう答える人は、きっと
「最後の日だから、あなたに会いに来たんだ」
という人を拒むことはできない。相手の想いを、受けとめることを選ぶ。一日を一緒に過ごすだろう。
だから
「私には会いたい人がいるのに、とくに会いたいわけではない人と世界最後の日を過ごす」ことになる。
その思いは、目の前のひとに悟られてしまうわけにはいかない。
なぜなら、相手が選んだのは私だから。目の前のひとが、最後に会いたいのは私だから。
世界最後の日に、悲しむのは自分だけでいい。