白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

見る

人は見たいものしか見ない。目の前にあっても、ちゃんと見ることができない。

と、よく言われる。正しい。

しかし、ぼくはこうも思う。

目の前のものをそのまま見るには、どうしたらいいのか。

見ることができないのだから仕方ないと諦めるのではなく、できるだけ見るための努力をしようと思うのだ。そのあとで、見ることができなかった場所を反省する。

いかに見るかについて考えるとき、専門家の目線を知ることから始める。何事も到達点を知ることは必要で、専門家サークルにこそ現代の到達点がある。もっとも、専門家になるわけではないから、一般向けの書籍で充分だ。

見ることは、美術・絵画と密接にかかわる。絵画を研究する人たちは、対象をいかに見るか、ということを延々と議論してきた。美術史家の目線を知ることで、いかに見るか、という問いに一定の答えを見出せる。というわけで、この3冊をおすすめする。

 

高階秀爾『名画を見る眼』(岩波新書、1969年)。

若桑みどり『イメージを読む』(ちくま学芸文庫、2005年)。

エイミー・E・ハーマン(岡本由香子訳)『観察力を磨く 名画読解』(早川書房、2016年)。

 

高階さんと若桑さんの本は、かなり似ている。両者の本は、「見ることは解釈すること」であると教えてくれる。どちらか一冊をあげろ、と言われたら高階さんをおすすめする。15の名画をどう見るかについて、必要十分に書かれている。ある時期までの絵画には、作者の意図が隠れている。その秘められた意図を、見る側が読み取っていくのだ。高階さんの本を読むとき、ミステリーの謎解きを味わっている感覚になる。極上のエンターテインメントとして読める。

とりわけボッティチェッリ「春」の解釈は、すばらしい。人生が変わった一瞬だった。大学一年のときに、絵画を見るとはこういうことなのか、と嘆息した。まず絵をじっくり見て、そのあとに謎解き編に移って解説を聞く。残る14作品も同じように謎解きとして読めるから、よい練習になる。

若桑さんの本は講義をもとにした本なので、文体がやわらかい。新書が固いな、と思う人はまずこちらから。重要なことに、なぜ絵の見方を身につけることが必要なのかに言及されている。絵画というのは表現なのだから、その表現にあった受容方法を知る必要があるというのだ。ルネサンスを中心にした美術史の入門として、うまい。ダ・ヴィンチの解釈にうならされたのを思いだす。

 

さて上記2冊で、美術史家の目線とともに、いかに見るかを体験した。見ることは解釈することである。解釈することは、遊びとして奥が深くおもしろい。

そのうえでハーマンの本に移る。これは、絵画の目線を現実世界に応用するにはどうするか、という視点から書かれている。ハウツー本である。絵画の目線を身につけても、現実で適用するには問題がある。絵画とは、一枚の静止画にすぎない。現実世界は常に動いている。じゃあどうすればいいのか。

本書は、①観察②分析③伝達④実践という4段階に分けられている。これらレッスンを続けていくことで、現実でも同じ視線を使えるようになるという。詳しくは立ち読みで、パラっとめくってもらえれば。

高階&若桑さんの本を読むだけでは、絶対に補えない箇所がある。自分の解釈を伝達する技法だ。ぼくらは両氏の伝達を受け取るだけで、けっして誰かに伝達しているわけではない。自分の見たものは何か、それは何を意味しているのかについて、他人にわかるように説得的に伝達すること。これができてはじめて、他者につながれる。

それぞれの箇所で絵画や写真を見ながら、ぼくらが実際に練習してみる。どれだけ見られていないのか、いかに分析が不十分か、いかに伝えきれないのか、いやというほど身にしみる。偏見まみれで、自分勝手で、受け手のことを考えていない。できているつもりで、おごるのがよくない。まったく絵画の目線を体していないダメな自分に直面する。

 

この本のよいところは、心理学の成果を盛り込んでいるところである。人間に備わった盲点を認識できる。見たいものしか見ない、目の前のものでも見ることができないと諦めがちに達観するのではない。そういう盲点が存在する人間として、どう世界を見て、解釈して、他者に伝達していくのか。その方法論を伝えているのだ。

相互に他者に伝達することができれば、コミュニケーションが生まれる。コミュニケーションこそが、人間に備わった盲点を極小化する効果をもつ。そうやって、世界を(できるかぎり)そのままに見ることができるようになる。