本
さいきん読んだ本とか。
村山由佳『星々の舟』(文春文庫、2006年)
短編連作集。すんごい。
直線的な幸福ではなく、ねじれきったすえの、一抹の幸せを描く
「自分だけの足で独りで立つことができてこそ、人は本当の意味で他の誰かと関わることができるんじゃないか」
グワっと感情の揺さぶられる瞬間が4つくらいある。すごい。読むのに心の体力がいる。
何かに属していることは、何かに制限されていることで。でもその状態は安心で、という。何にも属していないとき、ともすれば発狂しそうな心の内面を描いた短編集。
むかし読んだことがあるけれど、いま読むと迫ってくるものがある。「もう歳だしな……」昔のような勢いがなくなった中年男性の、「でも、まだやれる」という心の奥底を救いだす。家族のなかの中年男性。わかってしまう歳になりました。
森絵都『カラフル』(文春文庫、2007年)
既視感を憶えて読む気が失せてしまう冒頭の設定。しかし文章がきれいで、心情を丁寧に描いていくから不思議とスルスル読んでしまう。仕掛けも、種明かし前に気づくだろう。静かな感動がある。
森絵都『アーモンド入りチョコレートのワルツ』(角川文庫、2005年)
心情を丁寧に描いていくのがうますぎてもう。しかも年齢にあった語彙を遣いながら、世界認識(その転換)を浮き彫りにしていくうまさ。
伊坂幸太郎、石田衣良、市川拓司、中田永一、中村航、本田孝好『I LOVE YOU』(祥伝社文庫、2007年)
短編のアンソロジー。短編の醍醐味がある。
鴻上尚史『真実の言葉はいつも短い』(知恵の森文庫、2004年)
ロンドンの日記はおもしろい。エッセイもうまい。いろいろ飛んで、くるっとひねって着地する。好きなエッセイ。演劇論もおもしろい。
綿谷りさ『インストール』(河出文庫、2005年)
「平凡なようで何かが少しずつ崩れていくような違和感を終始感じられるところとかすき」とは友人の弁。その違和感を沁みいるように感じさせてくる、流れるような文体がすごいと思う。
合気と居合の足さばき
夏休みなので居合をしている。合気と居合とで足さばきに大きな違いがあるなぁと理解してきた。
富木流合気道の足さばきは、基本的に半身を作るためにある。前足を相手に正対させながら、後足を45度ほど開く。重心を体の真ん中にもってきて相手に正対するために、膝を入れて動く。基本的に後の先(ごのせん。相手の動きの起こりを捉えてから、動き出す)をとるので、半身が合理的になる。
いま無双直伝英信流居合道を稽古している。英信流では、基本的に相手に正対する。前足と後足は進行方向に並行である。足が並行になると、腰が相手に正対する。腰が相手に正対すると、正中線上を通る刃筋に狂いがなくなる。先の先をとる意識である。
ぼくの人体構造の理解だと、なにも考えずに一歩前に足を踏み出したとき、くるぶしが付いているかかとが引きずられて、半身に近い体勢になってしまう(もしくはかかとがもちあがる)。それは重心が両足の中心にあるからである。たとえば前に歩くとき、多くの人の靴底は外側からすり減っていく。つまり、かかとから接地する瞬間に、(かかと部分で)外側から内側への重心移動が起きている。身体の重みを支えながら前進するときに、上体をできるだけ一定に保つには、すこしでも重心を内側に寄せたほうが経済的だからである。走るときには一目瞭然である。走っている人を正面から見ると、両足の接地点は肩幅よりも内側の一直線上を志向する。体重移動がしやすい。
3か月間、少しくらいしかたないじゃないか、と思っていた。
しかし鏡の前で足の傾きを微妙に変えながら腰の動きを確認すると、両足を並行にしないと腰が正対しないのである。すこしでも正対していないと、腰が正面から外れ、真っ向切り下ろしにブレが生じる。刀を振ると、たしかに音が違うのである。並行にしないと鋭く切り下ろせない。つまり眼前の敵を斬ることができない。不十分な斬りこみになり、逆に斬られる。殺されてしまう。
このことは、合気をやっていたときに、正中線から外れていたのではないかという問いを提起する。いまのところ、「合気では膝を入れて上体を操作するのに対し、居合は膝を入れない。正中線の操作の仕方が異なる」という理解になっている。居合で膝を入れないのは(腰は入れる)、刀という重いものを振るときに膝のやわらかさで斬撃の威力を相殺させないためである。
考えていくうちにまた違ってくるかもしれない。
自己満足
目の前に車椅子に乗っている人がいる。付き添いの人はいない。
その人は坂道を前に、すこし停まっている。ぼくは、手伝わないほうがいいのか、手伝ったほうがいいのか。いつも迷う。
ひとりで車椅子を使う人は、基本的に介助がいらないからこそ、ひとりで生活している。坂道を上るというのは普通の生活の範囲内であって、大変かもしれないが対応してきたのだろう。事実、腕はそれなりに太い。車椅子に乗りなれている証だ。下手に助けようとすることは、ひとりで生活できる個人を、そういう存在として認めないことを表してしまう。こう考えて、何もしない選択肢をとる。周りの人も横をすり抜けていく。
一方で、何かしないといけないとも思う。車椅子で坂道を上るには筋肉を使う。停まっていた理由は、その坂が車椅子で上るには急なので、息を整えて「えいやっ!」と上ろうと思ったからかもしれない。普通の生活はできるのだろうが、こういう場面では車椅子を押すのが正しいかもしれない。
結局「大丈夫ですか。押しましょうか」と声をかけ、車椅子を押した。
車椅子は、その人の体重と坂の角度とで、とても重かった。最初はぜんぜん動かず、腰をいれてはじめて車椅子は動きだした。坂を上ると、重みがふっと消えた。「ありがとうございます」と言われた。
一日中気分がよかった。
所詮、自己満足だ。
この自己満足は、そんなに嫌いではない。