体温
実家に犬がいる。
来年春で15歳の、豆しばおばあちゃんだ。おばあちゃんだけれど、散歩のときには飛んだり跳ねたり走ったりする。
ちっこくて、ふわふわで、ちょっとごわごわしてて、ほんのりと動物臭い。
そして、とてもあたたかい。
ぎゅっと抱きしめたら、ヤメテクレーとむずがるけど、その反応がかわいくて、ぎゅってしてしまう。
動物にも感情があるんだぞ、無制限に甘えるな、と思ったそこのあなた、ただしいです。ほんとうなら、お犬さまの視点にたって嫌なことはしないほうがいい。
でも、その正論は原理主義的に適用すべきことではなくて、かわいいものはかわいい。もともと動物を飼うのは人間のエゴでしかないのだから、エゴを消そうとするのではなくて、エゴを認めたうえで精一杯愛せばいいのだ。
なんてことをグダグダ考えながら、首筋とかお腹とか、かゆそうなところをカリカリしてやる。
これまたかわいくて、カリカリする場所がどんぴしゃのとき、お犬さまは身体をぐいーとのけぞらせながら、後ろ足をカリカリと一緒に動かす。カリカリ(人間が掻く音)、シュッシュ(後ろ足が地面を掻く音)、カリカリ、シュッシュ。書いていて思うけど、たぶん、犬や猫を飼ったことがある人にしか伝わらない。
犬の身体構造には欠陥があって、どんなに身体を曲げても、自ら掻けない場所がある。首の後ろとか、胸の前とか、後ろのほうのお腹とか。後ろ足が届かないから、掻くことができない。掻きたくても掻けない。人間が、推し量って掻いてあげる必要がある。実家にいるときは、毎日毎日、お犬さまをカリカリしたりギュってしたりしていた。それくらい、かわいい。
お犬さまをカリカリしていた。
お腹をカリカリしてやると、とても気持ちよさそうにしている。毛が薄いお腹から、ゆび先を通して体温が伝わってくる。たまにギューってすると、我慢してやるから早くカリカリ再開しろよな、とでも言うように大人しくしている。背中に顔をうずめて、犬独特のあの匂いを嗅ぐ。
かわいい。
かわいいなぁと思いながら、いろんなところをカリカリしてやる。
あれ、と気づく。ぼくはいま実家にいるんだっけ?
いないゾ。夢なのか……いや、夢だと気づいちゃったら、この幸せな時間が終わってしまう。夢じゃない。これは現実だ……
抵抗むなしく、夢のような時間は終わる。京都の寒い朝7時、ベッドの上で、自分の腹をカリカリしている自分がいた。
幸せの余韻が寂寥感を倍増させる。自分の腹であたためられた指が、寒さで凍えていく。年末年始は実家に帰らないし、お犬さまと会えるのはいつになるかわからない。
もしかしたら、と思う。自分は体温に飢えているのかもしれない。そういえば、さいきん誰かの体温に触れた記憶がない。オキシトシンが足りないんだ。いや、オキシトシンという単純な説明に逃げるな。ぼくは何を求めているんだ?
他人を求めている。
自分ながらに引いてしまう。孤独になりたい、ひとりで生きていく、とか言っておいて、その実、こんなにさみしいのだ。犬に触れる夢を見て、夢がもっと続けばいいのに、と思うくらいに。心の奥では切実に他人を求めていた。体温に触れたいのだ。
みたいなことに気づくと、あとの対処は簡単で。
京都市動物園に来た。ふれあいパークがあって、うさぎとたわむれることができるのだ。不器用にピョコピョコするのを眺めて、むにっと抱きあげる。
あ……あたたかい。
感動がぶわーと押しよせてきて、心がいっぱいに満たされた。これを求めていたんだ。こうやって、ひとりでさみしさに対処する術だけを身につけていく。
重要だけどね。
京都に初雪が降った週に、ふれあいパークに院生がいた。