白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

孤独と愛――再考①

鴻上尚史『恋愛王』のなかに、アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』について触れたエッセーがある。その内容に触れながら、彼は言う。

 

彼女の夫は、おそらく彼女を愛しているのです。が、同時に、彼女の精神のある部分に対して、激しく憎んでいるのです。そして、あきらめてもいるのです。

それも、愛です。愛が、相手の存在を無条件に受け入れることだと思っているうちは想像もできませんが、それも、愛です。

 

愛とは、無条件に相手の全存在を受け入れることだと思っていた。相手の弱いところもダメなところも全部受けとめて、一緒に人生を歩んでいく。その人だけには、自分のもっともやわらかい部分をさらして生きていく。結婚は「高次の相互所有」じゃないのか。基本的に自律した存在だけれど、弱くなるときにはふたりで立ち向かう。そういう関係性のことを、愛と呼ぶのではないか。

愛には、相手の全存在を受け入れて肯定する覚悟が必要なんだ。それこそ愛なのだ。

そう思っていた。

でも、鴻上さんは違うという。受け入れないところもある愛……

受け入れられないところのある人を愛するとは、どういうことだろう? それは愛すると言えるのだろうか? この問いは棘のように心に刺さった。ふとしたときに考えていた。

 

今年の初め、三木卓『K』を読んだ。

三木さんが、亡くした妻のことを書いた本である。

読む前は、

結婚相手への愛をつづったのだろう。ふたりの甘い想い出を思いだしながら、ひとつひとつ書いていったのだろう。亡くした妻へのはなむけとして、甘く切ない思いを述べているのだろう。

と思っていた。

しかし、どうも違う。妻をまったく理解できなかった彼が、なんとか理解しようとして妻とのかかわりを描いていく本なのである。読んでいくと、おかしいぞと思う。ふたりは結婚生活の大半を、別居しているのである。こんなにすれ違っておきながら、よく別れなかったなとむしろ驚いてしまう。ふたりのあいだには、愛がないじゃないか。

でも読んでいくと、たしかに愛を感じる。普段、愛というときには、指輪とか相互理解とか泣く肩をさするとかを連想する。けれど、ここには、そういうだけではない愛が込められている気がした。どんな愛が込められているのか。

相手を理解したい、という目線に愛を感じた。亡くなった相手のことを理解できないと捨て置かない。なんとか理解しようとして、ひとつひとつの記憶を掘りかえす。彼女は、こういうふうに感じる人だったんじゃないか。彼女は、こういう人間だったかもしれない。もしかしたら、彼女の目には、ぼくのことがこう写っていたのかもしれない。あのときのことは、彼女はどう思っていたのだろう。

記憶とはおかしなもので、時間をかけて思いだそうとすると、どんなに昔のことでも思いだせる。普段は忘れていたような記憶まで戻ってくる。重要なのは、思いだそうとして、自分のなかにじっくりと潜りこんでいく過程である。彼女と自分のあいだには、どんな会話があったのか。どんなプレゼントがあったのか。どんなふうに喧嘩したか……そのときの空気感も含めて、自分の感覚を思いだそうとする。そして、相手からみると自分はどうだったのだろうと想像する。

そうして再現された記憶は、どうしても自分の心をつまびらかにする。ビデオを手にもって運動会を録画する父母のように、自分の目線が可視化される。ビデオに写るは我が子のみ。同じように、思いだすのは、自分の心が動いた場面を中心にして、それに付随するものだけだ。思いだそうとすれば案外思いだせるけれど、それ以上に忘れていることも多い。過去を振り返るとき、できるだけ忠実に振り返りたいと思っても、いろんなところを捨て、特定の角度で切り取っている。そうして心の動きが可視化される。残念だけれど、それが人間の限界である。

でもぼくは、そこに愛を感じた。本に書かれていたのは三木さんの心が動いた場面だけだとすれば、彼と妻との交流は思っている以上に多くて深い。結婚生活は破綻しているようで、彼らのあいだには何のつながりもないようで、そのじつ、しっかりとつながっていたのだ。こんなにもたくさんのエピソードがあるじゃないか。愛じゃないか。

この理解は間違っているかもしれない。しかし本にはかなり小さな出来事まで書かれている。妻との数少ない記憶を丁寧にたどっている。キメの細かい網で、なんとか妻を理解できるエピソードを抽出しようとする姿勢が垣間見えるのである。どんなにささいなことでも、思いだしたい。そうまでして理解したい相手。これを愛といわずして何というのか。

理解できないからこそ、理解したいと思う。思いだしてみると、ふたりのあいだには、たくさんの交流があった。離れているようで、離れていない。わからなくても、離れていても、つながっていたのだ。

これも、愛の形か。

なんとわからぬものよ。

 

この本の感想を思いだしながら、

相手の全存在を無条件に受け入れるなんて、愛の必須条件ではなかった

と嘆息した。

そんなものはありえない。

全存在を無条件に受け入れたいと思っても、それを実現することはできない。ぼくらは人間どうしなのだ。自律した人間どうしがつきあえば、相互に受け入れられない箇所がある。どうしても愛せない場所がある。すれ違いつづける想いがある。

全存在を無条件に受け入れるなんてのは、理想の愛でしかない。ぼくらは現実に生きる生身の人間だ。不器用で限界のある人間なのだ。理想なんて、空想の世界だけにしかない。

逆にいうと、だからこそ理想を求めるのかもしれない。ありえないからこそ、ユートピアを切実に求めてしまう。なんてせつないのだろうか。

それでも、と心のどこかで思う。一瞬だけなら達成できるだろう。永遠に無限の愛を示すことはできなくても、必要なときにできるだけの愛で包みこむことはできるんじゃないか。それすらできないのならば、愛の存在価値なんてないじゃないか。ずっとひとりでいいじゃないか。

誰しも、無性に抱きしめてほしいときはあるじゃないか。

――若いね

福永武彦が笑いながら、もう一回『愛の試み』を読んでよと言ってくる。

――いまなら読みが変わるはずだよ。他者との愛に理想を見出さず、他者にすがらなくなったから。今年の4月、君は救いを求めて読んでたから。