白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

映画『眼下の敵』

眼下の敵

 

戦争映画が好きだ。

極限状態での人間を見るのは、快感である。

初めて見る、眼下の敵を前にして、どうするのか。

 

【あらすじ・流れ】

第二次世界大戦時、アメリカ水上艦とドイツ潜水艦の戦い

 

水上艦の艦長は、元民間人である。自分の商用船がUボートに沈められ、一緒に乗っていた妻を亡くした。艦長室にこもっているため、船員にはさげすまれていた。

しかし艦長は敵を恨んではいない。こころを押し込めていた。「敵も軍人としてやったんだ。こっちも軍人としてやるべきことをやるだけ」

 

潜水艦の艦長は、第一次世界大戦からUボートに乗っていたベテラン軍人である。息子ふたりを戦争で亡くしていた。親しい友人に「こんどの戦争には、大義がない」(大意。打ち明ける言葉は、名言ばかりだった)と漏らしていた。

 

潜水艦が浮上航行をしているのを、水上艦のレーダーが発見し、両者は戦闘状態に入る。

 

潜水艦と水上艦の双方は、相手が見えないながらも、相手の考えを読むように動く。動く。動く。片方が先んじれば、もう一方がうまく次の手を打つ。潜水艦の進路が固定されているため、ハンデとなっている。

 

そのやり取りのなかで、敵への信頼が芽生えてくる。

 

最後。水上艦は捨て身の作戦で、潜水艦を沈めることに成功する。両方とも沈むことになる。

船員たちは救命ボートに乗って逃げる。

 

沈没するまえ、双方の艦長は互いに敬礼する。

潜水艦の艦長は、動けない仲間とともに死ぬことを覚悟した。

それを見た水上艦の艦長は、ロープを投げて彼等を助ける。眼下の敵を助けたのである。

 

【感想】

いまの日本人が想定するほど、意外と敵と味方が峻別されないものである。

もちろん概念上、敵は敵なのだが、それだけではない。

眼下の敵をまえに、どうするか。

映画『ユージュアル・サスペクツ』

ユージュアル・サスペクツ

 

1995アカデミー賞脚本賞

 

叙述ミステリーを、映像で描くとこうなるのか!と素直な驚き。すごい。

 

【あらすじ・流れ】

謎の黒幕であるカイザー・ロゼが、キートンを殺すシーンから始まる。船が炎上する。

それを影から見ていた生還者キントの証言で回想がされる。

 

映像化される時間軸は

現在1:回想を述べるキントと警察官

現在2:病室にいるもうひとりの生還者

過去:キント、キートンを含む5人の容疑者の動き

 

きっかけは些細なできごと。キートン、キントを含む前科者5人が容疑者として逮捕される。

キートンの恋人兼弁護士の働きで、釈放される。しかし獄中で、ヤバい金儲けの仕事をする話し合いがされる。

 

金儲けで、頭脳的な中心になったのはキートンだった。ひとつの仕事のはずだったが、ずるずると続けることに。そのうちカイザー・ロゼの手下コバヤシが現れ、メンバー5人の恋人・家族を人質に仕事を依頼する。

 

カイザー・ロゼは決してしっぽをつかませない。人相も不明。警察にも社会にも強いパイプを持っているらしい。伝説の犯罪者である。逃げようとしたひとりは、あっさりと殺される。

 

頼まれた仕事は、敵対組織の麻薬密売の阻止だった。船で運ばれている麻薬を、船ごと焼き払え。

ひとり欠けた5人組は、なかにいたやつらを皆殺しにする最中に気づく。

 

「この船には、麻薬がない」

 

カイザー・ロゼの目的は、自分の人相を知っているやつを殺すことだったのだ。冒頭につながる。

 

こうした流れのところどころで、キントを尋問する警察官の描写がされる。キントは釈放が決まっていて、任意の供述である。これらの話を聞いた警察官は「キートンこそが、カイザー・ロゼだ」と判断する。「彼は本当に死んだのか」いや生きてるはずだ。

 

もうひとりの生き残りは船の爆発に巻き込まれ、やけどの重傷である。瀕死の証言から、警察はカイザーロゼの人相を割り出す。

 

キントは尋問が終えて、警察署を出る。

 

そこで警察官は、気づく。

コバヤシは、手にしているコップのメーカーである。話の要所に出てきた名前は、それぞれ壁に貼ってあるメモの名前である。キントは、やけに落ち着いていた。

 

人相書きが、FAXで警察署に送られてきた。キントの顔だった。

 

「俺を甘く見るなよ」。そういっていた警察官は、自分が甘く見られていたことに気づいた。

カイザー・ロゼは、街中に消えていった。

 

【感想】

叙述トリックである。サスペンス映画に分類されるのではなく、ミステリー映画に分類されるべき。

カイザー・ロゼという大黒幕は誰なのか。これがテーマとなる。

証言では、キートンがカイザー・ロゼであるかのような誘導がされる。映像はキートン視点で描かれる。警察官も、キートンが死んだように見せかけて罪を逃れた事実を挙げ、「今回も死んではいないのではないか」と推理する。キートンこそがカイザーなはずだ。

見事である。

物語の中盤にくると、カイザー・ロゼは誰なのか。何の目的があるのか、ということが映画で描かれることがわかる。

ミステリーのお約束として、いままでに出てきた人物以外は、カイザー・ロゼなわけがない。5人組のなかの人物がカイザーなのか。それならばキートンだ。

もしかして警察にもパイプがあるようだし、警察官ではないか。それならば取り調べをしているやつだ。

いやもしかしてコバヤシという人物ではないか。いやキートンの恋人も怪しい。

見る人の推理が拡散していくように仕組まれている。うまい。

 

拡散した推理が、ラストで一点に集約される。美しい。

カイザー・ロゼの正体を知ったら、もういちど映画を始めから見たくなる。なるほど、あれは伏線だったのかと。

映画『レインマン』

レインマン

1989脚本賞

すばらしい脚本。ゾクゾクする。

 【見どころ】

主人公の欠点は何か。欠点を生んだ原因は何か。欠点を補う装置は何か。どう行動が変わるのか。お手本のような作品。

 

【あらすじ・流れ】

他人は自分のために利用するものと思っている主人公。その場しのぎで嘘をついても悪気なし。

ゆがんだ価値観の背景には、父親に見捨てられたと感じてから、愛を感じられないことがあった。

父親の死で巨額の遺産=300万ドルが手に入ると思ったが、遺言状の内容で主人公には残されないことが判明。

これに不服な主人公が相続先を探すと、いままで存在を知らなかった兄がいたことが判明する。兄は精神病院にいた。サヴァン症候群であり、社会生活は難しい。その分、記憶力と計算力は抜群である。そこの先生が後見人として管理していた。

 

主人公は、兄のレイモンドを人質に連れ出して、遺産をよこせと交渉することにした。裁判に持ち込むぞと。半分の150万ドルはこっちのものだ。

 

主人公は、兄の世話を恋人に押し付ける。しかし恋人は、他人を利用する態度に嫌気がさし逃亡する。主人公は、150万ドルをひとりで世話せざるを得ない状況に。

 

兄は、飛行機に乗れない。高速に乗れない。食事は曜日ごとに決まったものしか食べない。決まったテレビを見なければならない。雨の日は外に出ない。

 

これらに対応する主人公は、自分の事業のため、普通の道で3日かけて大陸を横断する必要にかられる。事業はパー。

その途中の宿で、風呂の水を張るときに、兄が奇声を上げる。

驚いた主人公は、兄のつぶやきから衝撃の事実に行きつく。

 

兄はレインマンだった。

主人公の生まれたときの家の様子を、完全に記憶していた。

 

主人公は自分に対する親の愛を確信する。兄の記憶を通して。兄への愛が芽生える。靴を脱がせた。

主人公は恋人に謝る。他人を利用するだけの存在とは見なくなった。

 

そこから兄をさげすむだけではなく、兄の美点を生かして一緒にカジノで財産をあげる。

 

最後は兄も主人公を「メインマン(親友)」と認めて、冗談をいうように。

主人公は兄を金とは交換しない。「つながってるんだ。たった一人の肉親を、どうして取り上げようとする」

 

【感想】

完璧な脚本である。すばらしい。

家族愛を感じずに育ち、他人に敬意をもてない主人公が、サヴァン症候群の兄と旅をすることで、特有の記憶力に保存された家族愛に触れ、兄弟でこころが通じるようになる。そうなったとき、主人公は、他人に嘘をつかず経緯をもてるようになった。

宮下奈都『羊と鋼の森』

宮下奈都『羊と鋼の森』(文芸春秋、2015年)。

2016年本屋大賞受賞。

 

大学4年、オーケストラをやっている友人に誘われて、はじめて生のクラシックに触れた。

プログラムが本棚にある。合計三冊。

あと1週間と少しで、もう一冊加わる。大学生最後は、クラシックの年だった。

 

そういえばと思って、『羊と鋼の森』を読むことにした。

新米の調律師の物語。美しい物語だった。

 

【あらすじ・流れ】

調律の世界に入るのは、ふとしたきっかけだった。たまたま学校のピアノを調律する様子を見ていた。その調律師の作る音に、「僕」のすべての感覚が揺さぶられる。居場所を見つけた気がした。

 

調律師になって、先輩について家を回っているとき、仲良くなった高校生のふたごの家で、はじめて調律をする。否、してしまう。

「ほんの少しだし、見習いといっても1年たっている。できるだろう」

できなかった。

できるわけがなかった。僕は打ちのめされる。自分ひとりでは、なにもできない。

 

数年たって、調律を任されるようになる。しかしどこか先輩たちの域には達しない。どこがどう悪いのか、どうすればうまくなるのか。模索が続く。

そんなとき、ふたごの片方がピアノを弾けなくなってしまう。精神的なものだろう。「僕」にはどうすることもできない。片方が弾けないから、もう片方も弾かない。だれも弾かないから、調律もキャンセルされる。

 

弾けなくなったほうは妹。弾かなくなった方は姉。

やがて姉が弾くようになった。

先輩とふたごの家の調律に向かう。僕は、最初のころとは違うところに目が行くようになっている。部屋のなかでの、音の響き具合だ。調律は、ピアノだけに向かうものではない。ピアノがだす音の響き具合は、それぞれの環境でまったく変わってくる。しかし、僕は調律しない。

 

先輩が調律したピアノを、姉が弾く。

 

湧き出す音。ピアノが息を吹き返す。

姉「ピアノを食べて生きていくんだよ」。

 

ふっきれた姉の演奏を聴いて、店のみんなは、こころが揺さぶられる。

妹は「ピアノをあきらめたくないんです。調律師になります」。

生きる場所を見つけて、それぞれが頑張る。

 

憧れの先輩に「なにがあったんですか」「急によくなりましたね」「音が澄んでいます」と言われる。自覚はないが、よくなったのだろうと、僕ははっとする。

 

先輩の結婚式で、ふたごの姉が演奏することになる。先輩ではなくて、僕がやります、やりたいです。

式場のピアノを調律する。最高の出来に仕上げた。

しかし考慮が足りない。たくさんのテーブルクロスが入っただけで、音の響きが変わることを考えなかった。

ただ、僕は成長している。ピアノを最高の状態にするのではなくて、お客さんが聴いたときに最高の音になるように調律しなおす。たくさんの人が入っても大丈夫なように。

ピアノの演奏はうまくいく。

憧れの先輩から改善点を指摘される。はじめて、技術的なことをいわれる。

ぼくは成長している。しかし道のりは長い。