映画『(500)日のサマー』
『(500)日のサマー』
身の周りで謎の流行をみせた映画。
「なんで()がついてるのかな」と思いつつ、なかなか見る機会がなかった。「どうせ恋愛映画でしょ」と思って敬遠していた。
しかしそのわりには、「キュンキュンした!」系の感想は聞かなかった。みんなそろって「グサグサきた」と言っていた。
繰り返す。
それでもぼくは、「どうせ恋愛映画なんでしょ。ラブ・ロマンスなんでしょ」と思い込んでいた。
見た人ならわかるだろう。
まさに主人公と同じ状況に陥っていたのだ。
じっさいは違った。相手は、ビッチだ。
【あらすじ・流れ】
主人公はトムである。主人公はサマーに運命を感じて恋をしてしまった。
時系列を日記形式に操って、うまくいっていたときとうまくいかなくなってからを対比させながら、物語は進んでいく。
歳の離れた妹に失恋をなぐさめてもらうところからスタート。
別れを切り出されるところをみせて、どうなるのだろうと思わせる。
サマーの恋愛観が示される。「誰かの所有物になるのなんて嫌。自分自身でいたいの。愛は絵空事よ。楽しければ、それでいいじゃない」
浦沢直樹に似ている同僚もいた。その同僚が帰る間際に「トムはベタぼれだぞ」と言う。ここでサマーは「友達として好きなのよね」と訊き、トムは悲しい顔で「ああ」と答える。まるっきり嘘だ。
ここから、トムとサマーの「恋愛」が始まる。
キスしたり、セックスしたり、AVを一緒に物色したり、公園で脈絡もなく「ペニス」と叫びあったり、記念の場所で腕に絵を描いたり。うまくいっていたころの記憶が、たくさんよみがえる。
トムは「セックスしたんだから、もはや友達ではない!」と思い込んでしまう。
うまくいっていたときと、うまくいかなくなってからが、振り子のように対比される。
イケアで夫婦のようにいちゃいちゃしたと思えば、イケアでサマーは無表情。
レコード屋で笑いあってると思えば、レコード屋でサマーは無表情。
仕事が最高にうまくいっていたときと、ぜんぜんだめなとき。
サマーのすべてがすきだったときと、すべてがいやに見えたとき。
こんなふうになったのは、トムがふたりの関係をはっきりさせようとしたからだった。
恋人同士になりたいトムと、友達としてしかみられないサマーは、決裂した。サマー「わたしたち、親友でしょ」
やがて。サマーは、トムが知らないうちに結婚していた。
それを知ったトムは絶望し、仕事をやめる。
昔からの夢だった建築家を本格的に目指すことに。
サマーとまた会う。
そこでサマーの本性をやっと受け入れられる。「きみは欲張りなんだな。ぼくには理解できない」
サマーは「夫とは会うべくしてあったのよ。きみのいう運命だった」
サマーを乗り越え、建築家を目指すトムは、就職面接のときに一緒にいたオータムに出会う。オータムも、トムのことが気になっているようだ。
また新たに、1日目が始まった。
【感想】
サマーは一貫して「トムとは恋人にはなれない」と言っていた。
トムは「(最初は)それでもいい」と言った。
しかし仲よくなってセックスもしてこころも許されたはずと思ったトムは、サマーがあいかわらず「真剣には付き合えない」と言ってくることに耐えられなくなる。
そこではっきりさせてしまった。ふたりは決裂した。
トムは絶望する。しかし相手に理想を見るのをやめ、自分の軸を見定めて再起すると、ちゃんと好きな相手が見つかる。
純情くんが、ビッチに恋をしてしまった、悲しい物語である。
認知的不協和だ。純情くんは、恋人の関係じゃないとセックスはしないものと考えた。だからこそ、恋人同士のような言動ばかりが思いだされる。「恋人同士なはずだ!」。「恋人にはなれない」という言葉は、本心じゃないんだろうとまで思ってしまう。
しかし不安である。だからこそ、ちゃんと確かめたかった。
サマーは、楽しいならば、誰とでもセックスできる。快楽主義者なのだ(誠実だった。
http://butaille.com/2015/09/29/)。
決定的な差である。
そんなサマーにも、結婚相手ができる。
つまり、トムとサマーは、接してはいけない人種だっただけなのだ。身の程にあった恋ほど、大切なものはない。
こうした物語を、処女×プレイボーイで語るのは面白くない。見慣れた物語に過ぎない。
それを童貞×ビッチで語るから、ここまでの衝撃がある。
よかった。
ロバート・シルヴァーバーグ『夜の翼』
ロバート・シルヴァーバーグ(佐藤高子訳)『夜の翼』(早川書房、1977年)。
ヒューゴー賞、アポロ賞受賞。
作りこまれた世界観。始まりと終わりが、とてもうつくしい物語だった。
【あらすじ・流れ】
この作品は、第1部、第2部、第3部に分かれる。
第1部:夜の翼
冒頭がうつくしい。〈翔人〉が蝶のような翼を広げて、夜闇へと羽ばたいていく姿。月明かりに照らされて華奢な裸身が幻想的に浮かび、しかし顔には「飛ばん」という決然とした表情が見てとれる。この飛翔の描写は、一読の価値がある。さらに〈監視人〉が、精神を宇宙に開放するさま! 一瞬で世界観に引きこまれるのだ。
物語は、〈監視人〉たる「私」の一人称で進む。
〈翔人〉〈監視人〉〈変形人間〉の三人は、一緒にロウムで宿をとろうとする。しかしとれない。ここにロウムの〈支配者〉たる皇帝が現れ、〈翔人〉に傷をつけるのと引き換えに宿を与える。
〈真実の口〉という、強制的に本音を喋らせる場所に行く。〈変形人間〉はじつは、他の星からのスパイだったことがわかる。私は侵略軍が近づいていることを確認する。ロウムを中心に戦うも、あっけなく侵略者に敗北する地球。征服される。私はみんなとはぐれる。
〈巡礼者〉と身分を偽った皇帝と連れ立って、私たちはペリに行く。
第2部:〈記憶者〉とともに
侵略された以上〈監視人〉は必要ではない。私はペリで〈記憶者〉というギルドに入ることにした。〈記憶者〉は、いまの言葉でいう歴史家・考古学者である。
第2部では、こうした世界が生まれるに至った過程を、私の勉強を通して学ぶ。
第1周期は、現代である。第2周期は異星との接触で幕を開け、地球は異星生物を集めた動物園を開いた。後進星から集めた生物にはひどい扱いをした。さらに天候の完全掌握を試み、地球を壊してしまう。
第3期に入る。崩壊した地球で、人類は〈翔人〉など特殊な能力・技能をもつもの同士で集まって、ギルドを結成した。地球を保つために、他の先進星から借款を行うも、返すことができない。このとき昔ひどい扱いをした後進星が裕福になっており、借款を全部買い取って、地球の所有を宣言する。「いつか絶対に征服し返してやる」。その星はまだ星間航行方法をもっておらず、いつか来る征服のため〈監視人〉が生まれ、〈防衛者〉がいたのだ。
そして現在、侵略者に征服された。
〈記憶者〉見習いとなった私は、連れの皇帝の色恋沙汰に遭う。皇帝を守ることで侵略者に抵抗しようとした私は、地球を裏切った。新たな連れとともに、〈巡礼者〉としてジョルスレムへ。
第3部:ジョルスレムへの道
〈巡礼者〉たる私の目的は、ジョルスレムでの再生であった。〈聖霊〉の審判を受けて、資格があれば、若返ることができる。
強欲な連れは再生に失敗するが、私は成功する。成功した私は、第1部の〈翔人〉と愛を交わす。
〈巡礼者〉の役割を終えた私は、征服後にできた新たなギルド〈救済者〉に入る。ここでは、侵略者も含めて地球上にいるひとたちすべての存在を〈救済〉することが目的だった。そのとき必要なのは、精神を飛ばすことのできる元〈監視人〉であったのだ。こころをひとつにすることが〈救済〉である。
〈救済〉場所に向かうため、〈翔人〉とこころを通わせ一緒に飛翔する。
【感想】
この作品はファンタジーだ。しっかりと世界観を構築している。まったく新しい世界を、ここまで奥行深く構築しているのはさすがである。(じつをいうと、この世界観を借りたと思われる児童文学に心当たりがある。)
始まりと終わりが、とてもうつくしい。映像が浮かぶ。描写がうまい。
もしかすると、侵略されてから第2部の途中までは少し退屈かもしれない。しかしそこを乗り越えると、あとは物語がぐいぐい引っ張ってくれて、最後に感動が待っている。
キリスト教の物語からとっていると思われるが、残念ながら詳しく知らない。もう少し深い読みができたのに、とも思う。
江國香織『泳ぐのに、安全でも、適切でもありません』
江國香織『泳ぐのに、安全でも、適切でもありません』(集英社、2005年)。
山本周五郎賞受賞作。
さらさらと、こころにしみこんでくる短編集である。私の一人称で、切り取られた世界の断片。
「うんとお腹をすかせてきてね」「ジェーン」「犬小屋」が好みだ。
男と私だけのくすりとしてしまうような決まりごと。なるようになっているのだか、なっていないのだか、よくわからない女友達との日々。さようならのいえないさようなら。
こころの内側に、するりと入りこんでくる。
現実に息づいていて、それでいてふわっとした手触りの作品である。
「短編は完璧な構成を楽しむもの」と思っている私にも、肩ひじ張らない語り口は、するすると読ませてしまう。
夏の夕暮れ、縁側で息をついていると、隣に座った「私」がゆったりと語りかけてくる感じだった。
映画『ララランド』
ララランド
現在公開中の映画である。先日のアカデミー賞で、今年度最多受賞作品。
それに恥じぬ作品だった。
※上映中の作品は書かないようにしようと思ったのですが、自分のためのメモなので書いてしまいます。それに呼応して、あらすじは最後にもっていきます。
【感想】
一年前、薦められてデミアン・チャゼル監督の『セッション』を見た。細部は思いだせないものの、ラストが印象的な作品だった。公演の最中、ドラマーと指揮者の言葉のないぶつかり合い。高みに上っていくドラマー。狂気が映像化されていた。
ひとつ。途中の唐突な交通事故は主人公を困らせるために仕組まれたのがバレバレで、少し気になる脚本ではあったが。
さて『ララランド』。この三つが正直な感想だ。
1ダンスと音楽の相乗効果がすごい。2エマ・ストーンの演技がすごい。3悲しいハッピーエンド。
1見た人ならうなずけるはずだ。いきなり始まるダンス。音楽。途切れさせないカメラワーク。すごいんだこれが。
2エマ・ストーンすごい。もうすごい。圧巻なのが、男のライブに行ったとき。「夢がかなったんだね……違う……楽しんでない……嘘だ……こんなあなたを見たくない」。これをすべて無音で表現する。ほかにもいろいろあるが、ここはすごい。
3ふたりは、夢を実現する。ハッピーだ。しかしふたりは別々の人生を歩んでいる。悲しい。弾かれたピアノで、昔のようにふたりだけの夢の世界に行ける。愛は終わっていないハッピーだ。しかし隣にいるのは別の男。悲しい。
正直に言って、脚本自体は既視感がある。芸術を目指す男女の、よくあるラブストーリーだ。そこは狙っていないのだろう。
ただ、ここまで自然に映像と音楽を融合させたものは、記憶にない。極上のミュージカルだった。
劇場を出ても、音楽が耳に残る。またダンスを見たい。美しいものを見た。
【あらすじ・流れ】
女優を夢見るエマ・ストーン。ジャズ喫茶をもつことを夢見る男。
渋滞した高速で出会ったふたりは、何度も顔を合わせる。パーティからの帰り道、ふたりはごく自然に踊りだす。波長が合っているのだ。
ストーンはそのとき付き合っていた恋人を捨てる。付き合うようになったふたりは、プラネタリウムで空を飛ぶ。ふたりなら、どこまでも行ける。夢を語り合う。
同棲し結婚も意識するふたり。男は「安定した収入」のために、嫌いな相手と嫌いな音楽をすることを選ぶ。成功してしまい、今後何年ものライブ生活が予想された(このライブに行ったときのストーンは必見)。
この状況を見て、ストーンは「ほんとうのあなたじゃない。嫌いな相手と嫌いな音楽をするの?」と言う。男は「仕方ないじゃないか。君のためだ」。誕生日に、ふたりのあいだに決定的な裂け目ができる。
男は、自分が間違っていたことに、写真撮影会で気づく。
ストーンは、自作の舞台で大失敗。いままで頑張ってきたのに......絶望する。男の謝罪を受け付けられる状態ではなく、「it's over」の言葉を残して地元に帰る。
男と女は別々に絶望していた。男のところに、ストーン宛の電話がくる。舞台を評価した制作陣からオーディションを受けてほしいと。
男はストーンの家に押しかけ、クラクションをブ―――と鳴らす。いままで、男と女を結びつけてきた音である。ストーン「わたしもうダメ。つぎ失敗したら立ち直れない。平凡に生きていくわ」。弱気なストーンに「来るのか来ないのか」と突きつける。
ストーンは行くことにした。もう自分を着飾る必要はなく、「あなたの話をしてください」との課題に、歌って答える。このメロディ……泣けるから劇場で見て。
男は「きみは受かるよ」と確信する。しかし夢の実現は、ふたりを引き裂くことになる。
ストーンは、オーディションに通ったら7ヵ月はフランス暮らしで、そのあとはもっと忙しい。男は、自分のジャズ喫茶をもつことで忙しい。もう、いままでのように会える時間はない。
ふたりは「ずっと愛してる」の言葉で、別れる。
5年後。
ふたりとも成功し、自分の家族をもっている。
ストーンは夫とともに、外へ。ふとピアノの音が聞こえてくる。入ってみると、彼のジャズ喫茶だった。
彼はひとめでストーンを認識し、「ようこそ」と。ふたりのあいだに言葉はいらない。最初に出会ったときのメロディを弾きはじめる。最初はさみしく、途中は劇的に、最後はさびしい。
このメロディの最中、ふたりは、ふたりだけの世界に入る。演奏が終わったら、おしまいの世界。
出会ってからのことがすべて思い返される。それは、ふたりが途中で絶望することのなかったストーリー。昔のミュージカルのような、夢の世界のお話。ふたりの最後のダンス。
さいごに、惜しむように目線を交わす。