ケイスケ・ホンダーーコンテクストによるイメージ
サッカー選手でありながら、よく話題になるのは彼の言動である。
言動からは、ぐんぐん前に進んでいくエネルギーを感じる。
まったく後ろを振り返らない。弱音はぜったいに吐かない。「そんなのオレに似あわないだろ」みたいな。
『プロフェッショナル』でもまったく同じだった。
この番組は、その道の一流の人に「プロフェッショナルとは?」と訊いて番組を終える。最後にプロフェッショナル観を問うのである。
たいていの人は質問に答えようとする。目標とか、絶え間ない努力とか、覚悟とか。いろいろ言葉を組み合わせて。
しかし本田は違った。
「ケイスケ・ホンダです」と答えた。「今後はケイスケ・ホンダにしてしまえばいいんです。お前『ケイスケ・ホンダやな』みたいな」
プロフェッショナルというラベルそのものを、ケイスケ・ホンダにしてしまう。
一見すると乱暴で、ただ名前が変わっただけなのだが、なぜか説得力がある。それは本田圭佑の生きざまが、プロフェッショナルっぽいからである。番組で映し出されたり、ニュースで話題になったりする彼の姿は、まったくブレずに本田圭佑っぽいのだ。彼は自分が最善だと思う生き方をしてきて、それは結局のところ、彼にとってプロの定義なのだ。
プロフェッショナル=ケイスケ・ホンダ。
なんとなく納得させられてしまう。まったく説明になっていないのだけど。
すごいなぁと思う。
※
ラストの余韻にしびれながら、コンテキストが受け手の解釈を支配するというブログを思いだしたhttp://www.t-antenna.com/entry/2014/11/10/083104。以下に引用する。
重要な事は、同じような発言をしていても、そのコンテキストが異なることによって、「コンテンツの価値」それ自体も変わるということです。
例えば、
本田圭佑「挫折は過程、最後に成功すれば挫折は過程に変わる。だから成功するまで諦めないだけ。」
その辺のニート「挫折は過程、最後に成功すれば挫折は過程に変わる。だから成功するまで諦めないだけ。」
という両者の発言は全く同じだけど、受け手の印象は全く異なるはずです。僕らはコンテンツを見た時に、その背景も無意識的に読み取って、文章を理解してます。
これを読んだとき衝撃を受けた。
まったく同じ内容なのに、誰が言ったかでまったく印象が違う。本田圭佑が言えば「やっぱりコイツすっげー」と思うけれど、ニートが言えば「口ばっかり動かさないで行動しろ」と思うのだ。
衝撃だよね。
白いくまもんという名前には、どういうイメージがついているのだろうか。怖さもあるけど、聞いてみたさもある。