白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。妄想日記。妄想は妄想です。実在しません

深町秋生『果てしなき渇き』

深町秋生果てしなき渇き』(宝島社、2005年)

 

おすすめされた。

読みながら、こういう本をおすすめするひとは、どういう人間なのかを考えていた。

 

暴力につぐ暴力が延々とつづられる。具体的で肉感のある描写だから、読者は暴力をする側になったり、される側になったりする。救いのない現実に、目をそらしたくなる。

登場人物はそれぞれに壊れている。

壊れているのは、渇ききっているからである。

何に? 

――愛に。

この作品の感想を書きながら、何に渇いているのかに触れないのはありえない。たとえ間違っていても言明すべきである。自分のなかに何も残さないならば、この本を読む意味はないし、読んだとはいえない。

彼らは、愛を渇望している。渇望しつつも、与えられないから、狂ってでも求めてしまう。

与えられないというよりも、感じられないといったほうが正しいかもしれない。感じられなくなってしまったのだ。なぜ、愛を感じられなくなったのか。

暴力である。暴力に蹂躙されて愛を感じるセンサーが壊れた。

さまざまな暴力がある。蹴る殴る刺す殺す強姦する……いくらでも挙げられる。自分で自分を追い込むのも暴力に含まれる。自分の魂に対する暴力である。

さて、暴力の本質は何だろうかと考える。

支配だ。

自分の意思を、相手の意思に反して押しつけること。思いどおりにならないから、物理的に相手を従わせようとする。

感じられない愛を渇望するとき、そこにあるのはむき出しの支配である。物理的な暴力で、渇望するものを達成しようとする。しかし、空しい。

果てしなき渇き。感じられないものを求めてしまうから、果てがないのだ。

求めれば求めるほど、空しい自分しかいないのだ。

 

三島由紀夫『小説読本』に、

「小説の読者は、非社会的な内的な動機を強くもちながらも、それを小説に託すことで解消する表面上善良な市民である」

という文章がある。

重い読後感に包まれながら、この一節を思いだしていた。

人間には黒い感情がある。けれど、その感情を行動に移してはいけないというのも、わかっている。

発露してはいけない感情に、どう対処するのか。

どす黒い感情が生まれてしまうのは、どうしようもない。他のことで気をまぎらわすばかりでは、積もり積もった感情に、いつか負けてしまうかもしれない。

ならば、適度に解消するしかない。それが人間である。

どうしようもなく発生してしまう「ぜんぶをめちゃくちゃにしたい。思いどおりにしたい」というような感情を、小説を読むことで解消させるのである。

 

こう書くのは必ずしも適切じゃないかもしれない。書かないほうがいいかもしれない。いちおう匿名ブログだけど、現実のぼくと少なからずつながっている。

この本を読んで、普段は見ないようにしている、どす黒い自分と対面した。彼が、どこか喜んでいるのを発見する。

重い読後感を包まれながら、にやりと笑う自分がいるのだ。

ぼくは、ここちよかった。