深町秋生『果てしなき渇き』
おすすめされた。
読みながら、こういう本をおすすめするひとは、どういう人間なのかを考えていた。
暴力につぐ暴力が延々とつづられる。具体的で肉感のある描写だから、読者は暴力をする側になったり、される側になったりする。救いのない現実に、目をそらしたくなる。
登場人物はそれぞれに壊れている。
壊れているのは、渇ききっているからである。
何に?
――愛に。
この作品の感想を書きながら、何に渇いているのかに触れないのはありえない。たとえ間違っていても言明すべきである。自分のなかに何も残さないならば、この本を読む意味はないし、読んだとはいえない。
彼らは、愛を渇望している。渇望しつつも、与えられないから、狂ってでも求めてしまう。
与えられないというよりも、感じられないといったほうが正しいかもしれない。感じられなくなってしまったのだ。なぜ、愛を感じられなくなったのか。
暴力である。暴力に蹂躙されて愛を感じるセンサーが壊れた。
さまざまな暴力がある。蹴る殴る刺す殺す強姦する……いくらでも挙げられる。自分で自分を追い込むのも暴力に含まれる。自分の魂に対する暴力である。
さて、暴力の本質は何だろうかと考える。
支配だ。
自分の意思を、相手の意思に反して押しつけること。思いどおりにならないから、物理的に相手を従わせようとする。
感じられない愛を渇望するとき、そこにあるのはむき出しの支配である。物理的な暴力で、渇望するものを達成しようとする。しかし、空しい。
果てしなき渇き。感じられないものを求めてしまうから、果てがないのだ。
求めれば求めるほど、空しい自分しかいないのだ。
三島由紀夫『小説読本』に、
「小説の読者は、非社会的な内的な動機を強くもちながらも、それを小説に託すことで解消する表面上善良な市民である」
という文章がある。
重い読後感に包まれながら、この一節を思いだしていた。
人間には黒い感情がある。けれど、その感情を行動に移してはいけないというのも、わかっている。
発露してはいけない感情に、どう対処するのか。
どす黒い感情が生まれてしまうのは、どうしようもない。他のことで気をまぎらわすばかりでは、積もり積もった感情に、いつか負けてしまうかもしれない。
ならば、適度に解消するしかない。それが人間である。
どうしようもなく発生してしまう「ぜんぶをめちゃくちゃにしたい。思いどおりにしたい」というような感情を、小説を読むことで解消させるのである。
こう書くのは必ずしも適切じゃないかもしれない。書かないほうがいいかもしれない。いちおう匿名ブログだけど、現実のぼくと少なからずつながっている。
この本を読んで、普段は見ないようにしている、どす黒い自分と対面した。彼が、どこか喜んでいるのを発見する。
重い読後感を包まれながら、にやりと笑う自分がいるのだ。
ぼくは、ここちよかった。