白くま生態観察記

上洛した白いくまもん。観察日記。勝手にコルクラボ

心の底

陸上の長距離をやっていたとき、タイムが伸び悩んだ時期があった。

男子校の高校2年のときである。ぼくは同学年で2番目に速かった。一番速いMは関東大会に出るくらいだった。ぼくより遅く入部したTもどんどん速くなっていて、抜かされるのも時間の問題だった。

ちょうど2ヵ月さきに駅伝が迫っていた。その1週間前に出場メンバーが発表される。ぼくは出られるかどうかの瀬戸際だった。学年で2番以内ならメンバーに選ばれるけれど、3番目なら補欠である。このままだとTに抜かされて補欠に落ちてしまう。

ひたすら練習をした。自主練もして毎日脚を追い込む。心肺機能を高めるためにプールでも泳いだ。人間必死にやれば何とかなるもので、伸び悩んでいたタイムも上向いてきた。大丈夫かなとは思ったものの、安心できないからもっと追い込んだ。

高校2年ともなると、大学受験のために予備校に行く人が増える。受験勉強の不安に駆られて、ぼくも予備校に行った。あまり勉強をしていた記憶はない。それよりも重大な関心事があったのだ。

当時、予備校でよく話す女の子がいた。授業が終わった帰り道、たまに一緒に駅まで歩いた。男子校だったから女子と話す機会もなくて、帰り道は楽しかった。教室で堂々と話せないくらいには、ぼくはシャイだったし、異性には何の興味もないふりをしていた。彼女のことが好きだったかもしれないけれど、当時は好きという感情がわからなかった。

でもなんだか女性が神聖な存在に見えて、迷惑をかけたり汚したりしてはいけないように思えた。話すときも、相手の顔色を伺いながら、恐る恐る話していた。相手の顔を正面から見つめることはできなかった。男子高校生の目には、あまりにも輝いて見えたのだ。

駅伝を2週間後に控えて、全体の練習も最終段階に入った。タイムを図ったらTと同じくらいだった。ぼくは焦って、自主練の量を増やした。メンバーを決める最後の5000m走では、絶対にTに勝たなくてはいけない。必死だった。

そうして5000m走の前々日、坂道ダッシュをしていると、右のふとももにピキッと痛みが走った。痛みで走れなくなった。歩いていても、ふとももが痛む。顔をしかめながら耐えた。湿布を貼っても痛みは取れない。病院に行くと「軽い肉離れですね。数週間は安静にしてください」と言われた。何を言っているのかわからなかった。嫌な汗が背中を伝った。

「来週、駅伝があるんですけど」と消えそうな声で言った。

「ダメです。そもそも、痛くて走れないはずです」

そのとおりだった。

抜け殻のような日々を送った。「痛い? 駅伝も近いのに残念だったね」と言ってくるやつもいたけれど、「また来年出るわ」と言って流した。「なんでそんなに自主練したんだよ」とも言うやつもいた。冷静になって考えると、そのとおりである。しかし、そのときの自分にはわからなかった。歩くのも痛いからという理由で駅伝の応援に行くのをやめた。ほんとうは元気に走ってるTを見たくなかった。心のなかがぐちゃぐちゃだった。こういうときどうすればいいのか、誰も教えてくれなかった。自分が情けなくて、誰にも言えなかった。

1週間たった。予備校からの帰り道、その女の子と一緒に駅まで歩いていると、突然「コンビニ寄ろうよ」と言いだした。いいよと言って、ぼくはオレンジジュースと肉まんを買った。その子は、ジュースだけだった。何のジュースかは憶えていない。ふたりで公園のベンチに腰かけた。なんとなく恥ずかしくて、右隣にいた彼女をさえぎるように高校のカバンを置いた。

「なにかあった? 最近元気ないよね」と彼女が言った。

ぼくは驚きながら「いや、何にもないけど」と答えた。「そんなふうに見えたかな」。空元気だった。

沈黙が流れた。

彼女は息を吸ってぼくを見つめながら、「もっとわがままを言っていいんだよ」と言った。

「つらいときはつらいって、吐き出していいんだよ。そうしたほうが楽なんだよ」

ぼくは、予想外の言葉に戸惑った。そんなにいっぱいいっぱいに見えたのか。心配させて悪いことしたな。でも、この人はなんでこんなことを言ってくるんだろう? あれだけ出たかった駅伝に出られなかったんだ。素直にTのことを認められなかったんだ。応援にも行かなかった最低のやつなんだ。

頭のなかが思考の渦でごちゃまぜになって言葉が続かなかった。

何か言わなきゃと思って、「ちょっと学校で疲れちゃってね」とだけ言った。

「それは、脚を引きずってたことと関係あるの?」

なぜ知っているんだと驚いた。赤の他人の軽い肉離れに気づくなんて難しいはずだ。安静にしていたから治りかけているし、予備校で顔をあわせるのも週に数回である。予備校の人にはケガのことを言っていない。せいぜい階段の上り下りで痛むくらいなのに。なぜ。

「見てればわかるよ」

困惑したぼくの顔を見て、彼女が笑った。

もう隠せないなと思った。どうにでもなれという気もちで、ドロドロした感情をぜんぶ吐き出した。勢いに任せて心の底をぶちまけた。話しながら涙があふれてきた。涙声で聴きとりにくかっただろうけど、彼女は最後まで聞いてくれた。

吐き出しきった瞬間、世界が晴れた気がした。重たいものがとれて、心がすっと軽くなった。ああ、ぼくは誰かに聞いてもらいたかっただけなんだと気づいた。

「ごめん。こんな話聞かせちゃって」と謝った。

「いいんだよ」と彼女が言った。「いいんだよ。ほんとうに」

 

ぼくと彼女の最初のエピソードである。

つぎの日から付き合い始めるんだけど、それはまた別の話。

 

(妄想です。念のため)

(続くかもしれない)